時流遡航

《時流遡航295》日々諸事遊考 (55)(2023,02,01)

(専門教育や学術研究問題に思うこと――④)
 まだ日本が文字通りの発展途上国だったかつての時代には、日々学問の修得に勤しむ若い学徒らに向かって、「末は博士か大臣か」という激励と羨望の念のこもった言葉などが発せられていたものだ。大学に通える者などほんの一部に過ぎなかったその時代、能力と向上心、さらには諸々の社会的条件に恵まれた学生らは、将来、優れた研究者として名を成したり、政治家や国家官僚として一大業績を挙げたりすることが期待されていたからである。一般庶民にとっては、大学で学ぶことなど文字通り高嶺の花に過ぎなかった。
 それから長い時代を経てこの国が文化、学術、政治さらには経済産業面で一大発展を遂げ、世界の先進主要国の一環を担うことを自負するようになった1970年代以降は、学問研究の場としての国内の大学は大きな変容を遂げるに至った。さらに2000年代に入り数々の大学や大学院が乱立する状況に及ぶに連れて、遠い昔、「末は博士か大臣か」と崇められたその学問の場は、誰もが想像していなかったような憂慮すべき様相を呈するようになった。敢えて皮肉を込めた表現を用いれば、諸々の日本の大学、なかでも大学院は、「末は白紙(・・)か大塵(・・)か」という言葉がぴったりの修羅場に成り果ててしまったからである。
 そもそも、昔は、博士号なるものを取得するのは容易ではなく、東大や京大レベルの大学の教授らであっても、博士号を有している者はごく少数だったものである。その称号は、現在のように大学院の博士課程を終えればすぐに得られる安易な代物などではなく、長年にわたる真摯かつ至難な研究の蓄積や、それらに基づく優れた論文が国内外の学術界で高く評価されて初めて得られるものであった。既に傘寿を迎えるに至ったこの身が学生だった頃までは、どの学術専門分野を例にとっても、博士の称号を持つ教授などは極めて稀だったものである。また、それゆえにこそ、トップクラスの大学のなかでも少数に過ぎなかった博士号をもつ教授たちには、誰もが深い尊敬の念をもって接したものであった。
 昔は、昨今の大学などとは違い、研究職を志望する者は、四年制学部をトップクラスの成績で卒業することを条件に、卒業後直ちに助手として採用されたものである。一度助手になって何処かの研究室の専属になることができれば、たとえ薄給ではあったにしても一応給与は貰えるし、講師、助教授などを経て教授になり、やがて定年を迎える時までそれなりに安定した研究生活を送ることが許されていた。東大・京大のようなところの大学院に進んだ場合でも、院生生活は二番煎じに過ぎないなどと冷ややかな目で見られたりしたものだ。東京大学法学部などはその象徴的存在であったと言えるだろう。学部卒業直後に助手として採用された者たちが、やがて講師、助教授、教授と昇進していく過程で極めて優れた研究論文などを公表し、その業績によって博士号を授与されることもありはしたが、当時の教授、助教授らの多くは、名誉称号とでも言うべき博士号の取得に拘ることはまずなかった。もちろん、だからと言って、彼らの研究業績やその能力が現代の研究者のそれに較べて高くこそあれ、決して劣っていたわけではない。
(「博士」という称号の実態は)
 ただ、その後、日本が経済的に大きな発展を遂げ、基礎・応用両学術研究分野や産業界の技術開発面での国際交流が高まるにつれて、大学研究者や産業界技術者の博士号の有無が何かと問題にされるようになった。海外先進国の専門研究者や技術者の多くが博士号の取得者であったため、国際会議の場などにおいて、日本人研究者や技術者らは肩書き面で引け目を感じてしまうようになったからである。そこで、そのハンディキャップを補うため、大学の各分野、なかでも理工学系分野においては、大学院修士課程・博士課程が次々に新設増設され、それぞれの課程修了者には修士号、博士号が授与される運びとなった。
 だが、そんな急ごしらえの学術政策は、必然的に数々の問題を生みもたらすようにもなっていった。博士号の取得者数が国内で急増したのはいいとしても、その称号はかつてのそれのように真の意味で深く学問を究めた人物に冠されるものではなく、専門的学術研究のスタートラインに立ったばかりの者、あるいは立つ資格を得たばかりの者を意味する程度のものと化してしまったからである。要するに、「博士」という学位の持つ意味は、「これから私は学術研究界の入口に立つことにします」ということくらいのごく軽いものへと変容を遂げてしまったのであった。
 前回述べたように、大学や大学院の数だけは急速に増加したにもかかわらず、そこは官僚出身や諸メディア出身の教員が溢れ返り、自らの過去の実務経験のみを誇らしく語るだけで、本来の真摯な学術研究や論文作成とは無縁な場と化してしまった。無論、一定数の実務家教員は必要だし、彼らの中に少なからず高い研究能力や教育能力を具えた人物がいることは確かだったが、全体としてのその流れは度を超したものへと変容していったのである。また、一方では、日本経済の衰退に伴い、国公立大学をはじめとする諸大学への運営交付金が大幅に減額されるようになったため、以前のように定年までその身分が保証される専任教員数は大きく削減されるに至った。そして、その対応策として、雇用期間に、3年、5年、10年といった期限の伴う大学教員有期雇用制度が広く導入されることになった。
 またそれら一連の流れは、当然のことながら、大学院博士課程の在籍者やポスドクと称される博士課程修了者の前途に大きな障壁をもたらす結果ともなっていった。たとえ博士号を得たとしても、専門研究を継続できるような所属先を探すのが容易でなく、たとえそんな職場が見つかったとしても殆どの場合はその任期が限られるため、常に任期終了後の身の振り方に腐心せざるを得ず、本来あるべき専門研究に専念するどころではなくなっていった。さらにまた、そんな若手研究者の苦渋の姿を目にするうちに、日本社会全体の学術界に対する敬意の念や信頼感は以前とは比較にならないほどに薄れ去ってしまい、ますますその存在は不遇かつ不安定ものとなってしまった。ポスドクとして一時的に身を置く場があったり、任期切れで大学や研究所を辞したあとも再雇用先が見つかったりした者はまだよいが、日々の生活のため、その能力の有無に関わりなく研究者としての道を断念し、異質で不慣れな他種業務に転身する者も続出するようになっている。
 まさに、当今の大学院博士課程在籍者らの状況は「末は白紙」の有様と成り果て、何とか一度は学術界に進むことができたとしても、程なく社会には無益な余り者、すなわち「大塵」として扱われる異様な事態が生じてきている。なかでもそんな状況が最も顕著なのが未来を背負う基礎学術研究分野だときているのだから、この国の将来は深刻そのものだ。日本学術界の指導者らは一致団結し、国の教育行政に対し厳しい声を上げるべきだろう。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.