時流遡航

《時流遡航320》 日々諸事遊考(80) (2024,02,15)

(国力の衰退とどう向き合っていくべきなのか)
 国際間における日本という国の存在感が低下したと囁かれるようになって既に久しい。その要因のひとつは、急速に進む少子高齢化が要因の労働力不足にあるとも言われているが、その実態の深層に目を向けると、話はそんな単純なことではなさそうだ。全ての生命体にとってそうであるように、一定の生存圏内に存在し得る生命体の個体数にはおのずから限界が伴う。常にその個体数が増加し続けることを前提に物事を考えるばかりか、限界域に到達した生命体個々の生存環境の一層の良化を必須条件としながら、その生命体の未来の飛躍的発展を希求するなど、どう考えてみても無理な話で自然の摂理に反している。太古以来のこの世の儚い変遷の姿を想えば、特定の生命種の限りない繁栄が確たるものとして保証されることなどあろうはずもない。我われ日本人などはとくに、「諸行無常」とか「盛者必衰の理」とかいった、平家物語冒頭部の有名な文言などの秘め持つ意味を今一度しっかりと噛み締めてみるべきだろう。それらは単に古典文学を感銘深く彩るだけの飾り文句などではなく、時代を超えて人心の増長を諌め諭す箴言だからなのである。
 日本人若年層の結婚生活観の変容に伴う少子化現象の進展や、国の経済的発展の負の要因とも言われる後期高齢者層の増大などに焦点が絞られ、新生児の出生率を高めたり、高齢者への福祉対策費削減に繋がる特別な政策が実践されたりもしてきている。経済力維持を狙う当面の処置としてそれらの政策を掲げる意図は理解できなくもないが、より長期的観点に立ってみた場合、真の意味での国の安定化にとってそれら一連の政索がどれほど有意義であるかについては疑問も湧いてくる。今後どこまでも経済的発展が続き、それを支える労働力のほうもどんどん増大し続けることを期待するなど非現実的だからである。
 以前は日本のお家芸だった先端技術力の低下や労働力不足のゆえに、国内の諸産業部門が衰退の危機に見舞われているのは紛れもない事実である。かつては世界第2位を誇り、近年中国に大きく抜かれて第3位に後退したGDPではあるが、現在では西ヨーロッパの最強工業国であるドイツにも抜かれそうになってきており、程なく世界第4位に後退することは間違いない。さらにまた、国民総数で中国を抜き世界一の人口を抱えるようになった一方、経済発展も著しいインドに追いつかれるのも時間の問題だろうと言われている。
ただ、その人口が我が国のほぼ半数であるにもかかわらずGDPで日本と肩を並べるようになったドイツの状況や、人口数やGDPは日本より遥かに少ないにもかかわらず、経済的にも文化的にも安定した国々が存在していることを思うと、ここは冷静沈着な対応が必要ともなるだろう。人口減少や経済規模縮小の事態を前にして、ひたすら国内人口やGDPの再増大政策のみに望みを托そうとするのは、どう考えても賢明な策とは思われない。たとえ将来的に国内人口が半減し、さらにはGDPが大幅に減少してその国際的序列が10位20位と著しく低下してしまおうと、それなりに豊かな生活環境と文化的水準とを保持する方策は存在するに違いない。しかしながら、国を挙げてその打開策を真摯に模索検討したうえで、定めた方策を国是とし将来的な国家の安定を図っていくには、少なくとも20年、30年先を睨んだ長期的展望に立つことが必要不可欠となるだろう。短絡的展望のみに振り回され、場当たり的社会政策の展開へと追い込まれてはならないのだ。
 日本の労働人口が激減し、GDPに象徴される国家的経済規模が縮小してしまったとしても、国内の自然環境が安定していて、国際的に見た文化的水準も高く、また先進諸国のそれと較べ国民1人当たりの平均所得や生活水準にも極端に大きな較差が見られないようなら、それはそれで十分に肯定できる情況ではあろう。むろん、全体的な諸環境の変化に伴い、一時的には苦境に陥る企業なども少なからず生じたり、国民全体の生活水準がそれなりには低下したりするかもしれない。だが、そこは国民の皆が相互信頼のもとで真摯に扶助し合い、国家全体の未来の安定化に専念傾倒していくべきであろう。
(教育立国の理念はよいのだが)
 資源国家ではない日本が国際的に立ち行くには、教育立国、さらにはその延長上にある科学技術立国としてその存在意義を高めていくしかないと、以前から繰り返し提唱され続けてきた。むろんその主義主張に間違いはないし、今後ともその観点に立って国策を進めることは不可欠なのだが、昨今はその実践を根底で支えてきた従来の状況にかなりの変化が生じてきている。その最たるものが教育界、学術界全般にわたる研究教育環境の劣化や、それに伴う研究力や教育力の驚くほどの低下である。研究や教育の世界というものは、通常、一般国民が気軽には近寄り難いところだとされているだけに、何か問題が生じてもついついその実態が見逃されてしまいがちなものなのだ。ただ、事ここに至っては、国民の誰もが真剣にこの種の重要テーマと向き合っていかなければならないだろう。
 教育の平等性や機会均等性などが国民にとって肝要なものであることは、今更ここで述べるまでもない。その見地からすれば、既に若年層の大学就学率も50%を大きく超えた教育立国としての日本の現況は、それなりに評価されてしかるべきである。だが、それにもかかわらず、我が国の学術研究力や教育力に少なからぬ翳りが見えてきているのは何故なのだろう。実を言うとその背景には、表向きの教育の平等性実践が抱える難題が潜んでいるからなのである。日本の初等中等期の教育にみるような義務教育の徹底化が、日本国民全体の基礎学力向上や、社会生活上不可欠な知識の習得に貢献してきたことは間違いない。だが、高度の専門化が不可欠な大学や大学院での高等教育分野となると話は全く別なのだ。
 2004年の国立大学独立法人化が転機となって、大学設置基準法の改正や厳格な既存の諸基準に対する便宜的拡大解釈がなされるようになった結果、国内では異常とも言える大学設立ラッシュが湧き起こり、各種私立大学をはじめとする玉石混交の新大学や新学部の設立が次々と推進されていった。そして遂には、国内の大学の数は4年制大学のみに限っても800校を超えるまでに至ったようなわけである。それらの大学の教育内容や研究内容の質を問わないさえすれば、大学進学志望者の全員入学が可能な状況になったわけであり、教育の平等化や教育環境の均等性という視点からしてみると、それは評価されるべき流れではあったのだろう。だが、現実はそう生易しいものではなかったのだ。
 真に優れた教職員の人材不足、独立行政法人化に伴う国立大学への運営費供与額の削減、急増した私立大学への大量な私学助成金の配分問題、そして入学してからが厳しい海外先進諸国の大学のそれとは異なり、国内大学の入学後の教育制度の甘すぎる実態――それらの要因が複雑に交錯し、日本の大学の教育力や研究力の著しい低下を招くことになったのだ。

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