時流遡航

《時流遡航282》日々諸事遊考 (42)(2022,07,15)

(文学国語と論理国語の分別問題に思うこと)
文科省当局からの指示によって、最近の高校の現代国語教育課程においては、その内容を文学国語と論理国語とに分別して扱うようにし、しかも日常生活や各種実務に役立つとされる論理国語が重要視させるようになってきています。当然、教科書検定もその指針に沿って履行されるため、真摯に国語教育を考える一部識者などからは、そのような現状に対する厳しい批判の声が上がり、教科書関連出版社なども今後の対応に何かと苦慮しているそうです。また、そのカリキュラム改訂に伴い、高校では文学国語は必修でなくなり、大学入試においても文学国語を必須受験科目としない大学が先々増える流れになるとも予想されているようです。教育界には最早無縁の身なのですが、そんな情報に接するにつけても、個人的には些か首を傾げざるを得ません。日本においては、文学というものがなぜそれほどまでに軽い扱いをされる存在に成り果ててしまったのでしょうか。
 それでなくても、現在の初等中等期教育課程においては、英語教育に重点が置かれる一方で、母国語である日本語教育が徐々に疎かになっていく傾向が見られています。また現代社会におけるSNS等の普及に伴い、若年層を中心に会話体に近いごく短い文章での交信とそれに基づく交流が主流となってきました。しかも、彼らの間では、一時期隆盛を極め必要に応じて短文から長文までの自在な交信が可能になった電子メールでさえも、高齢者が好んで用いがちな古いシステムだと見なされるようになってきています。さらには、大容量データ送信技術の飛躍的な向上に伴い、映像による交信や映像ベースのデータ管理がすべての面で社会的文化形成の中核となり、その煽りで各種書籍や新聞雑誌などのような従来の紙活字媒体は、その維持存続そのものが困難になってきている有様です。
 近年は、自分好みのニュースや情報類をスマホなどで手際よく見る一方、小説や随筆作品などはおろか、新聞雑誌類でさえも殆ど手にすることのなくなった若者が増えてきました。もちろん、今ではスマホやタブレットに文学作品の電子版をダウンロードして愛読する人々もそれなりに存在してはいるようですが、全体的に見るとそんな面々は少数者に過ぎません。しかも、彼らの殆どは初等中等教育期においてそれなりにしっかりとした読書力を身につけた者ばかりで、それゆえにこそスマホやタブレットなどで長文の文学作品類を楽しむことができるのです。そんな社会状況下にあって、出版関係各社が大幅な事業縮小、さらには廃業そのものへと追い込まれていくのは必然の成り行きなのでしょう。
 それら一連の社会的動向が日本の伝統的言語文化の維持に多大な負の影響をもたらしていることは想像に難くありませんが、そこへもって起こったのが、高校の教育現場における文学軽視の流れなのです。しかも蔭にあってそんな動きをさりげなく主導するのが文科省とあっては、ただもう言葉を失うしかありません。当然のことながら、伝統的な自国言語文化の軽視は、当該国家の品位や国力の衰退に直結します。もしも日本が諸々の面での国際化を急ぐあまり母国語を衰退させてしまい、英語一色に染まったとしたらどのようなことになるかを想像してみてください。
もちろん、それが熟慮を重ねたうえでの日本国民の最終的総意とあれば、自国の伝統的言語文化の維持にこだわるこの身もその判断を尊重はします。国粋主義思想などには一切無縁な人間ですし、数理科学専攻の元研究者として一応は学術英語も修得してきた身ですから、いざとなったら英語文化の流れの中へと老体を委ねることも厭いません。ただ、現在の状況下においては、安易に日本固有の言語文化、なかでも昨今の世相に見る文学作品軽視の動向を安易に見過ごすわけにはいきません。
(文学素養あってこその論理力)
 発展著しい諸々のビジネス界や、常時激しく推移変遷を遂げる現代社会にとって、物事の要点だけを的確かつ端的に伝える論理的文章が必要なことを理解できないわけではありません。しかし、論理的と称される論説文などを執筆したり読解したりする能力を、小説や随筆、紀行、詩歌などに代表される文学作品類の読書をすることなしに培うことなどできるものなのでしょうか。文学作品を軽視する人々の胸中には、文学的文章というものはどうでもいい現実離れした事柄をあの手この手で長々と綴るだけのものだとする思考が宿っているのでしょう。文学などは所詮娯楽に過ぎない代物で、今日明日の生活にとって重要な実用性、実利性にはまるで無縁な存在だと考えているのかもしれません。
しかし、困ったことに、そういう思考をもつ人ほど、論理的な文章の執筆能力や読解能力が低いのもまた事実なのです。そもそも、社会的に有意義な論説類を綴る人の殆どは、文学書、理論書、実務書を問わずそれなりの量の読書経験を秘め持っているものです。とくに成長期における優れた文学書との出合いは必要不可欠なものだと述べても過言ではないでしょう。人間の精神や社会問題の深層にまで鋭く分け入るような、明確で説得力のある論説文などは、人間社会そのものを多面的多層的な視点に立って描き尽くす文学作品との触れ合いなしに執筆できるものではありません。文章によって端的かつ明瞭な論理を展開するには、そこで用いる一語一句に深い想いを込めることが必須ですが、そのためには背後でそれを支える高い言語力と人間社会に対する深い洞察力とが欠かせません。若い時代における諸々の文学作品との出合いこそは、そのための必要条件でもあるのです。
たとえそれがビジネス上のごく実務的な文章であったとしても、その一文が明快かつ人間味豊かなものであるならば、当該業務の進展にも大いに役立つことでしょう。どのような文章にも少なからずその執筆者の人柄が現われるものゆえに、実務的文章に文学的素養は不要だと考えるのはけっして褒められたものではありません。個人的に知るかぎりでも、優れたビジネスマンというものはそれなりの文章力と読書経験を有してもいるものです。
SNSの影響下で極力短い言葉での交信が好まれる昨今とはいえ、短文で他者との奥深い心の交感を行うには、それなりの言語力が欠かせません。一時代前のパソコン通信の黎明期、SNSの原型ともなったチャットやBBS(掲示板)の世界に先駆的に関係し、「STRANGER」というハンドルネームでその世界の試行実験役を演じたこともあるこの身には、そのことが十分理解できるのです。互いにジョークを飛ばしつつ短い言葉で交歓し合うにも、高度な言語力や文章力、さらにはその背景を成す文学的基盤が不可欠だと痛感もしたものです。文学の世界における俳句や短歌は短文表現の象徴ですが、優れた俳人、歌人というものは皆深い人生経験や文学的素養を内有しています。その吟句や詠歌において紡ぎ出される一語一句は無意識下であっても幅広い教養や人生観を絞り込んでこそ生み出されるものであり、単なる一時の思いつきで詠じられるようなものではありません。

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