時流遡航

~大学乱立と学力低下の背景(3)~(2013,02,15)

大学設置基準の改定に伴う設置規制緩和に伴い大学の新・増設ラッシュが起こったわけだが、そんな大学を維持していくには、当然、相応数の教員を増やす必要があった。しかし、従来通りに教員資格条件を遵守していたら必要数の教員確保は難しい。そこでいまひとつ計算づくの対応策が講じられることになった。

新・増設設の大学の教授や准教授、講師、助教になるための資格条件は、大学設置基準の14条・15条・16条に細かく規定されている。このうち教授の資格に関する14条には1号から6号までの項目が列挙されており、それらのいずれかに該当し、大学における教育を担当するにふさわしい教育上の能力を有すると認められる者とすると、その条件が明記されている。准教授に関する15条と講師や助教に関する16条は、14条にほぼ準じた内容になっているから、ここでは14条の内容のみを検証しておくことにしたい。

第1号は、博士の学位を有し研究上の業績を有する者、第2号は、研究上の業績が前号の者に準ずると認められる者、となっている。国際的な状況に対応するため博士課程が拡充され博士号取得が容易になった近年では、教授や准教授が博士の学位を持つのはごく普通のことになった。だが以前は、東大・京大などのような著名大学の教授・准教授(旧助教授)たちでもほとんどは修士号取得にとどまり、博士号の取得者は極めて少なかった。第2号の規定はそんな状況に対応したものである。第3号は別途規定された専門職学位を有し、当該専門職学位の選考分野に関する実務上の業績を有する者、となっている。これは、医学、薬学、法曹関係などのような特別な資格の要る専門分野での十分な経験と研究を積んだ実務家を大学教員にするための規定であり、この第3号に準じて採用された教授や准教授(旧助教授)などは、本来的な意味において「実務家教員」と呼ばれる存在であった。第4号は大学において教授、准教授または専任講師の経歴のある者、となっているが、これはそれまで在籍していた大学から新たな大学への移籍を認定する規定だから特に問題はない。

(5号・6号の拡大解釈が発端)

実を言うと、急増し続ける大学の教員確保のために一役買ったのは次の第5号と第6号であった。第5号には、芸術、体育については、特殊な技能に秀でていると認められ者、とある。本来、この項目は、芸術系大学や体育学系大学の教員採用のために定められた。音楽、絵画、彫刻、工芸、各種運動など特別な分野において優れた能力を持つ者を大学教員にするには、学位や学歴などとは無関係な採用基準を設けておく必要があったからである。さらに、最後の第6号は、専攻分野について特に優れた知識及び経験を有すると認められる者、となっている。稀にだが、この世には無学歴であるにもかかわらず特定の専門分野に傑出した知識と経験を持つ者が存在する。小学校卒の学歴しかなかったのに独学で植物学の研究に没頭し、ついには国内最高の植物学の権威となり東京大学で教官を務めた牧野富太郎などがその好例だが、その種の特異な人材に道を開くためにこの6号は付加された。

小泉政権下において、大学設置基準改定と並んで教員資格条項の解釈変更が行われる以前は、この第5号・第6号の適用は慎重かつ厳正に行われており、その適用によって大学教員となった人物のほとんどは能力的にも人格的にも優れていた。ところが、この大学教員資格条項の解釈変更に際し、文科省は5号と6号の規定を柔軟に解釈適用するようにとの通達を出した。端的に言えば、それは、5号と6号の規定の拡大解釈を認めることにほかならなかった。「今回の改定は、教授等になることのできる資格を拡大し、広い範囲に優れた人材を求めることができることとしたものであり、資格の水準自体を変更したものではない」と弁明的な補足説明がなされているが、狙いは別のところにあり、その結果として呆れるような事態が起こったのだった。

「芸術、体育」という言葉を広義に解釈すれば、漫才師だって落語家だって歌手だって役者だって、芸能人は皆、「芸術の世界で特殊な技能に秀でていると認められる者」になるし、野球選手やテニス選手やゴルフ選手やサッカー選手など、スポーツ選手なら誰だって「体育の世界で特殊な技能に秀でていると認められる者」となる。また6号を柔軟に解釈するとなると、国家官僚、メディア関係者、テレビタレントは無論、ちょっとした専門職業に携わる者なら誰でも「実務家教員」に採用してもらえることになる。呆れた話だが、こうして、急増し続ける大学に必要な教員数を容易に確保できることになったのだ。

少子化の時代ゆえ当然定員割れする大学が出ることも予想されたが、その場合には中国や東南アジア諸国からの留学生を受け入れ、数合わせをすればよいという計算もあった。当然の成り行きとして、新・増設の大学には各省庁の役人が天下り、理事や教職員の多くを占めることになった。大学のレベルがどうであれ、大学教職員の肩書きをもらえるなら社会的な見栄えもよく、相応の俸給ももらえるうえ、その気になれば2年以上経過したあと元の省庁の郭外団体へ再天下りする道も開けたのである。その実態を隠蔽し批判を封じるため、知名度の高いテレビコメンテータやライター、芸能人らが「表の顔」あるいは「客寄せパンダ」として大学教員に採用されるようになったのも、この条項の巧妙な運用の所為なのだ。いまでは、「教育研究上必要があるときは、授業を担当しない教員を置くことができる」という設置基準十一条なども「弾力的に」解釈・運用されている。

(「悪貨は良貨を駆逐する」の典型)

以前に二、三の新設私大を実際に調べてみたが、各省庁の元役人が教職員数全体に占める割合は異常に高かった。同様の事態は現在も私大全体に蔓延しているに相違ない。それどころか、法人化後の国立大学教職員への天下りも目に余るばかりになってきている。大学の定義自体が明確でないことも、「実務資格取得に特化された大学」、「専門学校や学部とのレベル差が判然としない専門職大学院」、「実務家教員が大半を占める大学」などが乱立する原因になっている。新手の実務家教員がすべて悪いとは思わないが、博士論文はおろか修士論文さえも書いたことのない教員の激増はやはり問題であろう。「悪貨は良貨を駆逐する」というグレシャムの法則の表現を借用すると、「悪教職員は良教職員を駆逐する」、さらには「悪大学は良大学を駆逐する」ということにもなりかねない。このままだと膨大な教育予算が天下り官僚らに食いつぶされ、その影響で将来を担うべき諸々の基礎学術研究は衰退し、大学の質は急速に低下してしまうおそれがある。残るのは学術論文など書いたこともないタレント教授や役人教授の跋扈する幼稚園大学だけだろう。安倍首相には申し訳ないが、日本の大学を世界一にするなど夢のまた夢に過ぎない。

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