時流遡航

《時流遡航273》日々諸事遊考 (33)(2022,03,01)

(高校生による東大前での刺傷事件を考える)
今年1月、東大前で起こった刃物による刺傷事件は何とも衝撃的でした。大学共通テスト受験生2人と一般男性1人が突然背中を切りつけられ負傷したわけですが、それが、東大理科Ⅲ類合格を目指す受験勉強に疲弊し、現在の自らの成績に絶望した名古屋在住の高校2年生の犯行だったという事実には言葉を失うばかりです。
諸メディアの報道を後追いするかたちで、その高校生の愚行やそれに対する両親の責任などを糾弾することは容易ですが、ここは一旦冷静になって、当該事件の背景に横たわる日本社会の実状を考えてみることも必要でしょう。その高校生が心理的にそこまで追い詰められたことにはそれなりの理由があったはずですし、また、罪を犯すまでには至っていないにしても、彼と同様の精神状態に落ち込んでいる高校生などもけっして少なくないと思われるからです。この際、我々国民の誰もがそんな彼らの心的状況について深く想いを廻らし、多少なりともその深層に分け入ってみるべきではあるのでしょう。
 私が高校生だった頃までは、現代の状況とは異なり、医学部への進学はそれほど崇められてはいませんでした。理科系においても、むしろ工学部や理学部のほうが人気があったくらいです。ただ、バブル崩壊に伴う経済界の不安定化のゆえに、定年もなく職業的にも収支的にも安定し、人命とも直結する医師という仕事は高く評価され、広く社会的な信頼を集めるようになりました。また、その流れを契機として大学医学部の人気は高まり、国公立大学や有名私大の医学部への進学は狭き門と化していったのでした。そして何時しか東大理科Ⅲ類は大学受験界の頂点に立つ象徴的存在として喧伝されるようになったのです。
通常は文部科学行政や受験指導一辺倒の学校教育を批判する新聞社等の諸メディアも、大学受験合格者の発表期になると傘下の週刊誌や月刊誌を総動員し、難関大学医学部をはじめとする有名大学諸学部の高校別合格者数ランク付けに奔走する有様です。この時ばかりは、有名な進学校や予備校の受験技術指導力の高さが大々的に報じられたりもします。自己矛盾も甚だしいかぎりなのですが、経済的利益を優先せざるを得ないメディア各社の現状からすれば、なりふり構わぬそんな行為も致し方ないということになるでしょう。 
しかし、学術界における諸々の専門領域の等価性や、社会におけるそれら個々の分野の重要性などを無視するかたちで、東大や京大の医学部をまるで現代日本の最高学府であるかの如くに奉ってしまうメディアの責任は大きいと言わざるを得ません。医者という職業の実態を、その利点や難点の両面から真摯に考察することもなく一時的に崇め祀る報道により、心ならずも振り回されてしまう受験生やその親たち、さらには中高教師たちの姿の何と悲惨なことでしょう。人間のもつ能力とはウニの具え持つ無数の針のようなもので、それぞれにまるで異なる方向を指しており、個々の針それぞれが等価でそれなりの存在意義を有しているので、大学入試の点数や学力偏差値のみでそれらを単純に評価することなどできません。それなりの能力を具えていたはずの高校生が、自らの可能性を完全に閉ざしてしまう事件を起こした原因は、当人やその親族のみに帰せられるべきではありません。
(医師の道と受験成績は別問題)
 この件については本誌の15年3月15日号でも論じたことがあるのですが、今一度その要旨を顧みてみることにしましょう。欧米先進諸国では、数学、物理化学、生物学などの数理科学系の専攻者が、文学や芸術学を含む社会科学系の研究に転じたり、その逆に社会科学系の専攻者が数理科学系の世界に転じたりすることなど珍しくありません。米国の大学医学部などの場合には、四年間ほど文系・理系に跨る広く深い基礎教養を積みながら人格形成に努めたあと、自分の適性や能力を十分に勘案し、そのうえで同学部へと進むのが普通なのです。我が国も、そろそろそのような欧米流の多様かつ柔軟な学術界のありかたに倣うようにしたほうがよいのではないでしょうか。基礎教養が異常に軽視され過ぎている近年の我が国の状況は甚だ気掛かりでなりません。
 故人となってもう10年近いのですが、私の友人に五十嵐武士という東大法学部名誉教授がおりました。舛添要一元東京都知事の先輩筋に当たる五十嵐氏は、国際的な知見も豊富な一流の学者でしたが、生前に東大入試制度検討委員会の責任者を務めたことがありました。その五十嵐氏が二人だけの場でふと吐いた一言を今も私は忘れることができません。
「現在の入試制度では無理なのだが、もしもそのようなことが可能なら東大理Ⅲ進学者の大半を占める有名私立高校の合格者数を絞り込みたい。むろん、彼らは入試で高得点を取るし、その中に極めて優れた学生がいることも確かだが、全般的に見て、将来優れた医師や医学研究者となるのに不可欠な人格や、真の意味での自主性、創造力、探究力、忍耐力、責任感といった資質に欠けている者が多すぎる。まるで盆栽みたいに手取り足取り育てられてきており、将来大樹となるべき成長力に欠けること著しいからだ」と呟いたのでした。それなりに実情を知る私もまた、その言葉には少なからず共感を覚えたものでした。
 受験界の頂点に君臨する東大理科Ⅲ類は、受験生にとっては憧れの的でしょう。ただ昨今は、医学の世界がどんなものか考えもせず、大学入試模擬試験の得点や偏差値が高いというだけの理由で理Ⅲを目指す者が少なくありません。運よく理Ⅲに合格した学生の中には、それが人間としての能力の高さの証であるかのように錯覚したり、まるでそこが人生のゴールでもあるかのように勘違いしたりする者が多々いることも事実のようです。進学校や進学塾の指導者らが、東大理Ⅲをはじめとする有名大学医学部の合格者を出すことに自らの名誉と存在意義を感じるようになっていることも問題かもしれません。指標の設定法からして問題の多い統計学というものの裏表をそれなりに熟知しているこの身にすれば、受験界でもてはやされる偏差値の高さなどたいして意味のあることには思えないのです。
 むろん、私が知るかぎりでも、東大や京大の医学部出身の医師や研究者で、人格、能力の両面においても優れた人物は少なくありません。しかし、そんな人物にほぼ共通して言えることは、彼らが広い教養を具え持っていることです。芸術や文学の世界などに驚くほど通じていたり、哲学や社会学に造詣が深かったりもします。要するに、専門領域の壁を超え時間をかけて広く学ぶことによって培われた総合的な人間力を具備しているのだと言えるでしょう。技能も高く経験も豊富なある臨床医が一旦休職し、大学の哲学科で学んだ事例などを知ってもいますが、それには深い理由がありました。諸々の患者それぞれに適切な対応しながら、絶対解など存在しない苦悩多き医療の道を歩むには、人間の本質や社会の実態に対する自らの洞察力が不十分だと感じ、反省したからだというのでした。

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