時流遡航

《時流遡航277》日々諸事遊考 (37)(2022,05,01)

(トランプ前アメリカ大統領にも偽情報蔓延(まんえん)の責任が)
 ウクライナ紛争の直中にあって、主にロシアサイドからフェイクニュースが多々発信されて続けているようですが、冷静に考えてみると、そのような展開に至った原因の一端はトランプ前アメリカ大統領にもあるのかもしれません。先の大統領選でトランプ一派は様々な偽情報を流したばかりか、激戦の末に敗れたその選挙の結果そのものがバイデン現大統領を支持する民主党側の謀略(ぼうりゃく)によってもたらされたものだとの虚偽の弁明を繰り返しています。トランプ前大統領は未(いま)だに自らの敗北を認めていないばかりか、その熱狂的な支持者らの多くも一連の偽情報を信じ、実際に勝利したのはバイデンではなくトランプだったと主張し続けています。この問題の深刻さは、そのような事態がロシアや中国、さらには北朝鮮のような、元々自国民に対する情報統制の厳しい専制主義国家においてではなく、民主主義陣営の象徴とも言うべきアメリカ合衆国で生じたということにあるでしょう。
 民主主義国家を標榜(ひょうぼう)し、情報統制などにはおよそ無縁な先進国ゆえ、国際情勢とも深く絡む重要な政治的案件にフェイクニュースなど無意味だし、一時的にフェイクニュースが流れたとしてもそんなものは通用しないとされてきた米国で、まるで想定外の事態が発生したのです。常軌(じょうき)を逸した米国の政治的混乱ぶりは、太平洋を挟んでその光景を眺めやる日本人にとっても衝撃的なものでした。
 ただその一方で、降って湧いたような米国の無様な混迷状況を目にして喜んだ輩も少なからず存在したことでしょう。それ見たことかと内心誰よりもほくそ笑んだのは、常々国内の情報を自らにとって都合のよいようにコントロールしてきたロシアや中国の専制的指導者たちだったかもしれません。当然の流れとして、彼らは、「自由主義を謳(うた)い民主主義を至上のものとして崇(あが)め祀(たてま)ってきた米国においてさえもフェイクニュースで民衆を操(あやつ)ることができるのだから、強権力による情報操作が必然の独裁的政治手法を以て自国民を意のままに制御するのは難しいことではない。そもそも一般民衆とはその程度のものに過ぎないのだ」と開き直り、専制の度合いを一段と高めていくことにもなるでしょう。
その意味では、大統領になる以前から極秘裏にプーチンと通じていたのではないかという疑惑さえも残るドナルド・トランプという人物は、民主主義社会の体内に巣食う癌みたいな存在だったと述べても過言ではないかもしれません。
下手をすると米国社会にその癌が広く転移し、2~3年後には世界の民主主義全体が半身不随の状態に陥ってしまうことだって起こり得るでしょう。もちろん、この世には百パーセントの事実で固められたリアルニュースも、逆に百パーセントの嘘で固められたフェイクニュースも存在してはおりません。諸事象を描写する言語というものの避け難い特性のゆえに、ニュースあるいは情報と称されるものの総ては、虚実が適度に交錯し、相互に支え合うことによって形成されています。従ってある特定部分だけに執着する視点に立つと、如何にリアル度の高いニュースや情報であってもフェイクになってしまいますし、逆に、どんなにフェイクに満ちたニュースや情報であってもリアルなものに見えてしまうのです。結局のところ、我われ個々人は流布される情報類のリアル度やフェイク度の相対的高さがどの程度なのかを冷静沈着に判断し、それらを受け入れるか否かの選択をするしかありません。結果の適否に関しては運命に任せるしかないのでしょう。
(ロシアの文学や芸術について)
 日々報道されるウクライナの惨状を目のあたりにするにつけても、ロシアという国やその国民の政治的動向に対する批判は高まるばかりですが、文学や芸術の分野におけるロシアの歴史的な業績は偉大というほかありません。近代文学だけを例にとっても、ゴーゴリ、ツルゲーネフ、ドストエフスキー、トルストイ、ソルジェニーツィンといった世界の文学界に名を馳(は)せる大作家の存在には目を奪われるばかりです。時局柄もあって、ロシアの文学や音楽を始めとする諸芸術の業績までが敬遠乃至(ないし)は拒絶されがちな昨今ですが、その点に関しては一時的な敵対感情の昂揚に振り回されてはなりません。
 冷静な視点に立ち、極力客観的に想いを廻らせてみるならば、前述したロシアの著名な作家らの主要な作品類は、人間の深い内面の葛藤(かっとう)や国家というものが宿命的に具え持つ矛盾を的確に描写したものばかりです。彼らの主作品の殆どは人間心理の奥底に潜む病的で残忍な境地や、横暴な国家権力が人民にもたらす凄惨(せいさん)かつ悲劇的な事態を鋭くかつ感慨深く描き切っています。また、それらの作家に共通するのは、彼らが皆反権力的な人間だったということでしょう。ドストエフスキーやソルジェニーツィンにいたっては、シベリアの強制収容所へと流刑され、想像を絶する苦境を味わうという経験も積んでいるのです。
 自らの自我観の確立に悩んでいた若い時代の私は、ドストエフスキーの「罪と罰」や「カラマーゾフの兄弟」、トルストイの「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」、そしてまたソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」や「ガン病棟」などを次々に読み漁ったものでした。そして、それら一連の読書を通じて、陰湿このうえない人間の本質というものを痛感させられるとともに、それでもなお、自らに鞭打(むちう)って矛盾だらけの現世を生き抜かなければならないという宿命を学び悟ったような次第でした。ささやかな文章表現力しか持ち合わせないこの身ですが、その下地の一部を形成してくれたのがロシア文学だったことには否定の余地がありません。それらの書物は今も自室の書棚の一隅にあって枯死(こし)寸前の老身を無言のまま見守ってくれています。
 未完には終わったものの、一人の人間の具え持つ御(ぎょ)し難い多面性を描き出したドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」、さらには、その描写手法を一段と発展させ文字通り多角的かつ重層的に人間や人間社会を描出してみせたソルジェニーツィンの「イワン・デニーソヴィチの一日」や「ガン病棟」、「煉獄(れんごく)のなかで」のような作品――それらの著作によって啓発された人々は、日本国内においても、文学の専門家の方々を始めとしけっして少なくはないことでしょう。読書好きな若者には是非薦めたい著作でもあります。
 ところで、今やその悪名が世界に轟(とどろ)くプーチン大統領は、過去の著名なロシア人作家の文学作品をどのように受け止めているのでしょうか。知的にはそれなりの資質を持つ人物でしょうから、一度くらいはその種の著作を手にしたことはあるでしょう。ただ、いずれの作家も反権力的であったことからすると、快くは思っていないのかもしれません。多面的に描かれた人間像の偽善的で狡猾(こうかつ)な一面だけを必要不可欠なものとして深く受け入れ、絶対的権力は持つが孤独で欺瞞(ぎまん)だらけそのものの人生を全うしようというのでしょうか。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.