時流遡航

第17回 先端光科学研究の世界を訪ねて(9)(2011.7.1)

スプリング8では基礎科学と応用科学をつなぐ研究も積極的に推進されている。各種有機高分子物からなるソフトマターは、エレクトロニクス機器から医療医薬器材、さらには自動車や航空機にも及ぶ生活関連資材の基礎材料だが、その研究開発用の施設、「フロンティアソフトマター開発産学連合ビームライン」(FSBL)が昨年2月に完成した。学術界の「知」と産業界の「技」を結集して新ソフトマターの研究開発をめざすこのプロジェクトには、その分野で日本を代表する19の企業と20の国公私立大学や研究所が共同参画している。基礎研究から製品生産に直結する応用技術開発までを一貫して推進するこのプロジェクトが実現したことにより、近い将来、他国の追随を許さない高品質で多機能な新素材が開発され、日本に新産業の興隆をもたらすと期待されている。

応用科学研究でも諸成果が

産業利用に直結する応用技術研究の進展も著しい。トヨタ自動車などはスプリング8に専用ビームラインを設置し、独自の技術開発を行っている。排気ガスに含まれる3種の有害成分、一酸化炭素、炭化水素、窒素酸化物を酸化還元して浄化する三元触媒のメカニズムを解明し、その成果をもとに高性能三元触媒を実用化した。

また、次世代リチウムイオン電池として期待されるニッケル型電池の充放電プロセスを調べて原子レベルで性能劣化の原因を解明、劣化層の成長を抑制し、電池寿命延長に成功した。その結果、電池の軽量化とコスト削減が実現し、ハイブリッド車や電気自動車の飛躍的な性能向上が期待されるようになった。なお、ダイハツ工業と日本原子力研究開発機構の共同研究による自動車用インテリジェント触媒の実用化も特筆に値する。

特殊なセラミックスを用いてパラジウム、白金、ロジウムなどの貴金属触媒を自己再生させるメカニズムの研究を原子レベルで進め、貴金属触媒の消費量を大幅削減することに成功した。その技術をもとにしたインテリジェント触媒搭載の車は08年時点で500万台に達している。

自動車関連では、高分解能X線CT法によってグラスファイバー配合のスタッドレスタイヤの氷上でのグリップ機能のメカニズムを解明、その結果、セラミックス製のテトラピックを配合した新型タイヤの開発が実現した。これは住友ゴム工業の業績である。

繰り返し充電使用可能なニッケル水素電池の電極材料の合金組成を最適化する技術を追求し、放電容量が既存製品より2割も大きい製品の開発に成功したのは、ジーエス・ユアサコーポレーションだ。また異色なところでは、花王によるヘアケア新製品の研究開発もある。髪の艶に深く関係するうねりの構造を細胞レベルで解析し、髪の毛に艶を与える効果をもつ有機酸配合のシャンプー、コンディショナー、トリートメントなどの商品化を成し遂げたが、そのためには5マイクロメートルの高い分解能をもつビームラインでの小角X線散乱分析が不可欠だった。

CMOS(相補的金属酸化物半導体)という次世代の半導体生産に不可欠な応用技術を開発したのは富士通研究所である。スプリング8での研究によって確立されたCMOSの極薄膜積層構造の精密な解析・評価技法は、近い将来生産規模が2兆円にもなると予想される同半導体の製品化に貢献することは確実だ。また、スプリング8のX線回折測定ビームラインを駆使してNECと姫路工業大学とが共同研究を進め、光集積素子の発光特性要因を解明、高い発光効率をもつ同素子の製品化に道を拓いた。さらに、高精度測定システムや小角X線散乱法を用いて液晶ディスプレイ用の配向膜材料の設計指針を確立した日産化学工業の業績も重要だ。液晶ディスプレイは液晶分子の配列を制御し、光の透過と遮断を適宜調整して映像を再現するのだが、配向膜はその際に液晶分子を特定の方向に配列する機能をもつ。液晶ディスプレイの品質は、この配向膜の性能の優劣に左右されるのだ。

鋼材などの金属材料の補強技術開発も進んでいる。金属表面に強力なレーザー光を照射してその劣化度を調べると同時に、金属製品のひび割れを抑制するレーザーピーニング技法を確立したのは東芝で、この技術は原子炉の金属疲労抑制にも応用されている。また、住友金属工業や大阪大学の共同研究グループは、鋼材溶接で生じる凝固割れのメカニズムを究明するため、高合金鋼材の溶接時の溶融と凝固の過程の組織変化を精査する技術を開発、凝固割れを改善する材料設計指針を確立した。なお住友金属は、自動車用鋼板にも多用されている合金化溶融亜鉛メッキ鋼板の亜鉛と鋼材の合金化プロセス解明にも成功した。

古代史や文化財研究にも貢献

昨秋、奈良県新公会堂能楽ホールで、「夢の光が照らす文化と歴史」という、理化学研究所とスプリング8主催の講演会が開かれた(写真)。講演会の狙いは、日本の先端光科学研究が一見無縁とも思われる古代の歴史文化研究に大きく寄与している事実を広く訴えかけることにあった。そのため、講演者には理研所員のほか、東京藝術大学、京都大学、早稲田大学、東京理科大学、奈良文化財研究所などから古代文化や考古学の研究者らが招聘された。各演者は、古代史や古代文化財研究にとって、日本の先端光科学がいかに重要であるかを興味深く説き語った。

基調講演では、スプリング8の蛍光X線分析法を用いると、古い書画の外縁部や裏張りの微量な糸屑の断片からでも使用された絹糸の種類やその特徴、経年数、劣化度までがわかるほか、国宝級の仏画などの裏彩色の意義や制作過程における隠された構図、過去の修復が原作品に及ぼした影響などを検知でき、的確な文化財復元修復作業が可能になることなどが報告された。また、X線トモグラフィー技術を駆使すると、偶然に剥落した貴重な仏像類のごく微細な木屑からその樹種や経年数、国内外の産地までが推定可能なこと、3世紀の古墳から出土した銅鏡裏面の微量な付着物を放射光赤外線分析法で調べると想定外の古代絹糸が検出されたこと、同じく古墳出土の飾り金具組紐から東南アジア産の植物繊維が発見されたことなども発表された。さらに、日本の先端光科学技術は、アブシール南丘陵遺跡出土のエジプト最古の透明ガラス分析や、古代エジプトの各種顔料の秘める謎やルーツの解明、シリアやトルコの古代遺跡出土の土器やガラス製品の成分分析などを通し、世界の考古学研究にも貢献しているという事実なども披露された。「考古学とは、先端科学知識を武器に古代人の足跡を黙々と追う鑑識捜査みたいなものだ」という著名考古学者の言葉などは、とくに印象的だった。

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