時流遡航

第31回 東日本大震災の深層を見つめて(11)(2012,02,01)

東日本大震災の被害が甚大なものになってしまった背景には、人間社会及びその構成員である我われ個々人の持つ宿業が見え隠れしている。それは、科学的な問題というよりは社会学的な問題であると言ってよいだろう。一個人が自分の力のみを頼りに生きるには限界があり、長期にわたって生きながらえるには、どうしても他者との連携、すなわち社会組織の形成が不可欠となるし、またそうでなければ伝統文化やそれぞれの地域に固有な歴史などを築き重ねられるはずがない。そして、各地域や各集落にある文化や歴史というものは、その地方の地理的な状況や気候風土などと深く結び付いている。だから、海、川、さらにはそれらに隣接する平地などを基盤とする生業に従事する人々が、それまでの生活とは直結しない場所において、しかも平時の状況とは甚だ乖離した特別な安全基準を遵守しながら暮らすというのは、一時的にはともかくも、長期的には極めて難しい。

津波被災地域住民の被害者に対し、国の行政関係者や諸々の識者らが高台移転や他地域への転居を推奨勧告するのは勝手だが、現実の話となると事はそう容易でない。自分が同じ状況に置かれていたらどうであるかを冷静に考えてみるとよいだろう。時が経つにつれて、被災者の間に「もう一度大津波に襲われても構わないから、元の場所で暮らしたい」という声が上がり始めるのもある意味で当然のことなのだ。

地方暮らしに縁遠い有識者にかぎって常々日本文化の存在意義などを声高に唱えたりしがちなものだが、日本文化という漠然とした概念を必要以上に振りかざすのは慎んだほうがよいかもしれない。日本文化が人間の全身体に相当すると仮定すれば、身体の各所にあって全身を支える数々の筋肉は地方文化に相当している。筋肉あってこその全身体なのだが、手足のそれをはじめとする諸々の筋肉は、不慮の外的な原因で損傷する危険を常に孕みながらも身体を支え続ける。そんな筋肉、すなわち地方文化あってこその日本文化であることをこの際我々はしっかり認識しておかなければならない。そう考えてみると、三陸地方や茨城・千葉一帯の太平洋沿岸の震災被災者の人々が、今一度元の場所に生活の拠点を再建したいと切望するのを決して笑うわけにはいかないのだ。

東日本大震災による被害の大きさを教訓に、500年に一度、1000年に一度の大地震・大津波に備えて莫大な防災関係費を投入し、耐用年数や機能には限界があるのを承知で大堤防その他の諸防災設備を再構築する街造りを行うのか、大地震・大津波に破壊されることを前提に人命の犠牲のみは最小限に抑える機能的な退避路・退避施設優先の街造りをするのか、あるいは両者の中庸をとった街造りをするのか――これは、科学的な問題というよりは、社会学、なかでも社会組織論の今後の重要課題であると言ってよい。

大谷海岸の「道の駅」に立つ

気仙沼から南三陸町や女川町方面へと南下する途中で立ち寄った大谷海岸一帯の損壊状況も凄まじいものだった。JR大谷海岸駅や、それに隣接する本吉町の道の駅「大谷海岸」の施設「はまなすステーション」にも立ち寄ってみたが、鉄筋コンクリート製の建物内部は完全破壊され、往時の繁栄など見る影もない有り様だった。立ち入りが規制されているその施設の内部に敢えて立ち入り、損傷のひどい階段伝いになんとか最上階の展望所まで昇って周辺を眺めやると、枕木が剥ぎ取られひどく歪み曲がった線路の残骸が目に飛び込んできた。しかも、線路の名残が見て取れるのはまだよいほうで、鉄道敷地のいたるところで線路自体が流出し、影も形も見当たらない有り様だった。また、そうではなくても、本来の位置からはずいぶんと離れた場所に流され、錆びて赤茶けた姿を晒しているのだった。

天井の各種配線やダクト類が無数に垂れ下がる一階部分に再び降りて、床一面に転がる瓦礫をよけながら出口に向かいかけた時、足元一面に飲料品の瓶や缶が多数散乱しているのが目にとまった。よく見ると外側はかなり汚れているものの中身のほうは変質などしていそうになかった。コーラやウーロン茶の缶を拾い上げ、「喉も乾いていることだし、もったいないから飲んでみるか」と言いながら、いったんは同行者と顔を見合わせた。だが、さすがにそれでは一種の空き巣狙い行為に当たるのではないかと思い直してどちらからともなく自制し、いったんは手にした品々を元の場所に戻した。誰の手によってそれらが回収され、どのように処理されるのかは知る由もなかったが、一様に瓦礫扱いされ、そのまま纏めて廃棄されることだけはないようにして欲しいと願うのみだった。

大谷海岸をずっとのちの9月に再訪した際のことだが、たまたまその道の駅の駅長を務めている人物と言葉を交わすことができた。当日、野田総理が一帯を訪問視察する予定になっているとかで、粗相がないようにとの指示が国会議員や市長筋から出ているため、担当者はその対応に大あらわなのだということだった。「この道の駅周辺の視察なんて精々10分くらいのものなのだろうに、どうしてこの大変な時期に……」という溜息交りの呟きが不意にその人物の口から漏れたりもした。その場で耳にしたところによると、昨年9月のその時点では、義捐金などはまだ被災者には届いておらず。どう配分するかの方針や方策が立たないまま、県や市当局に保留されたままになっているらしかった。また、瓦礫撤去作業に当たる業者の作業代も2ヶ月分ほど滞納が状態が続いているとのことだった。

南三陸町・志津川病院の悲劇

志津川湾を取り巻く南三陸町一帯の惨状にも目を覆いたくなるばかりであった。南三陸町では約16000人の住民のうち4000人余が避難したが、住宅3880棟が全壊し、死者・行方不明者の総数は約1200人にのぼった。震源海域方向に向かって志津川湾口が大きく開く地形とあっては、被災を回避することなど到底不可能だったに違いない。海から400mの距離にある公立志津川病院の荒廃した無人の建物が周辺の被災の全てを象徴していた。

津波に襲われたこの病院では、医師や看護師による壮絶な救助活動にもかかわらず入院患者107人のうち72人が死亡あるいは行方不明となった。また、助かった35人もほとんどが全身ずぶ濡れになり、替えの衣類や食料はむろん、暖房も照明も無いなかで寒さと飢えと恐怖に耐えながら、辛うじて津波に呑み込まれずに済んだ病棟の5階部や屋上で2日間救命ヘリの到来を待たねばならなかった。波高6mという当初予想を遥かに超える大津波のため、高さ16mの4階部までは完全浸水し、医療機器類も全て破壊し尽くされた。ベッドごと流され水中に呑み込まれていく患者を見ながら医師らは自らの無力さに涙し、一時は彼等自身も死を覚悟したという。実際、看護師3人も死亡していた。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.