宮古市街を流れる閉伊川の河口周辺、さらには宮古湾最奥の津軽石一帯の被災状況も言葉には尽し難いものがあった。家屋類の被害はもちろんだが、宮古湾一帯の船の被害も大変なもので、津波によって陸上に打ち上げられ大破した漁船や貨物船の残骸が至る所に散乱していた。多数の廃船が一箇所に集められているところもあったが、それらを解体し、重油まみれの機関室やエンジン部を処理するだけでも、とてつもない費用と労力を要するに違いなかった。実際、破損したまま方々に横たわる船を集積場に移動するだけでも大仕事のようで、1~2台の小型重機がどこか頼りなげに動いている有り様を見ていると、船体そのものの解体処理作業に手が着けられるのはまだずっと先のことだろうと思われた。
引き波の破壊力が大きい理由は
津軽石付近の国道に沿う高さ5m前後の長大な防潮堤には、今回の津波の被害の特徴をよく物語る痕跡が残されていた。のちに訪ねた宮城県南部の山元町の防潮堤などにも同様の痕跡が残されていたが、それは津波の場合だけでなく通常の海の波浪にも共通する寄せ波と引き波の力学的な違いに起因するものだった。完全破壊だけは辛うじて免れ残存していた防潮堤の内側が、ほとんど例外なく無残に抉り剥ぎ取られていたのである。
浜辺や磯辺の波うち際に立ち、できれば足を海水に浸けながら寄せ引きする波の動きを観察すればわかることだが、寄せ波のほうは比較的遅い速度で緩やかな斜面を徐々に盛り上がるようにして迫ってくるのに対して、ザーッと音を立てながら足元を洗い流す引き波のほうはずっとその動きが速い。砂浜や小砂利の浜辺の場合などは引き波によって足下が抉られる。波の荒い折などには立っているのが難しいほどだ。重力に逆らって徐々にその運動エネルギーを位置エネルギーに変えながら陸方向へと進む寄せ波の場合は、次第にその速度は遅くなる。しかし、重力の作用に従い、蓄積された位置エネルギーを一気に運動エネルギーに変えて海側へと走る引き波の場合は、加速度的にその動きが速くなる。これこそが、寄せ波より引き波の速度と力が大きい理由なのだ。そして、このことは津波の場合にもそっくりそのまま当てはまる。しかも、通常の波に比べて極端に波高が大きく、寄せ引きに要する時間が長くなる分だけ、寄せ波と引き波の速度や力の差も大きくなる。実際、津波においても、破壊力が大きいのは寄せ波より引き波のほうなのだ。
津波などを念頭においた防潮堤建設ということになると、無意識のうちに波の寄せる海側のほうに重点がおかれ、その結果堤防の外寄りは頑丈に造られるが、それに対し陸側の堤防内寄り部分は、相対的にその強度を抑えた造りになっている。前に述べた田老の二重堤防のうちの壊れず残った内側堤防などは例外だが、それ以外の堤防は構造的にほとんどどこも同じである。防潮堤を越えないレベルの津波ならそれでよいのだが、防潮堤を軽々越える今回のような大津波の場合には、激しい引き波の力によって堤防内側の弱い構造部、なかでもその基底部が抉られる。さらに、単に水の力によるだけでなく、巨大瓦礫類が引き波によって急激に流されながらその部分に衝突するから、一層堤防内側の破壊が進む。そして、そこへ第2波、第3波の津波が来襲すると、遂には脆弱になった堤防のあちこちが破壊され、その部分から一挙に大量の海水がなだれ込む。防潮堤が決壊しないうちは、その働きでまだしも引き波の勢いが抑えられるが、一旦防潮堤が決壊したら引き波のエネルギーは一段と大きくなる。各地の津波被災状況を具に観察すれば分かるように、海岸線付近では寄せ波による被害よりも引き波による被害のほうが遥かに大きい。ただ、津波が防潮堤を大きく越えて集落に浸入し、しかも防潮堤が決壊せずに持ちこたえた場合、引き潮の速度は抑制されるが、浸水地区の水の引き具合が遅くなるという負の一面は残り得る。
防潮堤に関しては大震災以降様々な議論が繰り広げられている。岩手県は有識者員会を設置して検討を重ね、14の地区で防潮堤を6.1m~14.7mに再整備する方針を固めた。宮古市田老地区の場合は外側の防潮堤を震災前より4.7m嵩上げして14.7mに、また陸前高田においては従来6.5mだった堤防を12.5mまで嵩上げすることにした。どの市町村も津波から住民を守るためより高い防潮堤建設を求めているので、数十年から百年に一度の頻度で起きるレベルの津波から住民を守るという想定に立ち、その建設方針が定められたという。ただ、一方では、「津波の際に海が見えず状況把握が難しいので、かえって避難の妨げになる」、「折角の景観が台無しになる」、「海と間の直接的な往来が不便で生活に支障がある」、さらには「建設費が膨大になり過ぎる」といった危惧の声も上がっている。
いずれにしても、今回のような波高20mを超える巨大津波を防潮堤によって防ぐことは不可能だが、一定レベルの津波から集落を守るために堤防を再整備することは必要だろう。むろんその道の専門家にその点抜かりはないだろうが、今後は引き波の影響をも考慮に入れ、防潮堤内側部分の強化も忘れないようにする必要がある。
山田町や大槌町に見る惨状
宮古と釜石の間に位置する山田町や大槌町の被害も深刻だった。死者・行方不明者を合わせた数は、高さ8m、厚さ1m余の防潮堤が無残になぎ倒された山田町の場合は約900名、市街地がほぼ全滅し町長自らも死亡した大槌町に至っては1700名余にのぼっている。沖の湾口付近がかなり狭い、いわゆる袋状の形をした山田湾は、内部に小島などもあり、通常は波も穏やかで風光明媚な良港となっている。外海がひどく荒れた場合でも、入口が狭いため直接的には高波が到達しにくい。湾内の大沢漁港や山田漁港はそんな地の利に守られてきた。山田町の防潮堤の幅がその高さに比べて意外なほどに薄かったのは、過去の津波では十分それで対応できていたからなのだろう。しかし、今回はまるで状況が異なったのだ。廃船の山ができている大沢漁港の悲惨な光景がその何よりの証である。
その一方、山田湾の18kmほど南にある大槌湾は、湾の形状や湾口の向きからして、沖から寄せる津波の波高を増幅させるべき地理的条件を備えている。大槌川の河口付近の見るからに頑丈そうな大防潮堤の主要部が徹底破壊されている状況、海岸線から遠く離れた被災建物上に流された遊覧船が鎮座している光景、錆び歪んだ鉄骨構造だけを剥き出しにして立つビルの残骸群などからしても、大槌町が今回の大津波を凌ぎ切るのは土台無理だったのだろう。屋上まで丸ごと津波に呑み込まれたという大槌町役場の壁面最上部に今も残る大時計の「3時32分」を指したままの針が、悲劇の全てを物語り尽くしていた。