時流遡航

危機的状況にある我が国の高等教育(5)(2011,1,1)

現在問題となっている高等教育費不足の一因は大学の多さにもあるのだから、重点大学のみに研究・教育費を優先投与し、そこへ人材を集中させればよいとの意見もある。その見解に従えば、必然的に国公立大学間の統廃合や格差問題の発生はやむをえないということになる。実際、国立大学の法人化以降はそのような動向が強まり、大都市の有名国公立大学と地方の国公立大学との格差は予想されていた以上に大きくなった。そして、その結果、地方の国公立大学は疲弊し、既に述べたように高度な研究などできなくなってきた。

有名大学重点化策にも問題が

それでは、東大や京大などのような有名国立大学は順風満帆かというと必ずしもそうではない。法人化したおかげで、それら有名大学は民間からの投資や支援も自由に受けられるようになり、人材も資金もそれなりに集まりはした。しかし、それに伴う新たな問題も生じているのだ。欧米の学術研究界の場合には、その人材構成の最頂上部が言うなれば円錐台の上面みたいに広く平らな形状を保っており、最上部でも人材の相互流動性が極めて高い。能力さえあれば、大手民間企業やベンチャービジネスから高度な研究を行っている大学や国の研究機関などへの移籍も、またその逆移籍も可能であり、常時、自由闊達な人材交流が行われている。いっぽう、東大・京大などごく一部の大学を頂点に、以前よりも一層鋭く先の尖った円錐状の人材構成をとるようになった日本の場合、人材の流動性においても事情は大きく異なっている。

従来、東大・京大などの優秀な若手研究者の多くは地方国公立大学の教官となって転出していたが、今そこで彼らを待つのは、研究費の枯渇や想定外の雑務による「研究者としての死の運命」のみである。当然の結果として、若手人材は地方大学に行きたがらない。だからといって、頂点に位置する大学に若い有能な研究者すべてを受け入れる余地などないから、必然的に人材の流動性がなくなり、行き場を失い立ち枯れ状態になる者が続出する。掛け替えのない人材の浪費と喪失が起こっているわけだ。むろん、国立大学の法人移行が具体化し始めた時点でこのような事態に至るであろうことはある程度予想されたはずだから、そのような問題にまるで無関心だった多くの大学人にも責任の一端はあるだろう。

大学院修了者の就職問題

わが国の大学院生のおかれている現状も問題だ。二年間の修士課程修了後に就職を望む院生の場合、その就職活動は数ヶ月にも及び、そのうえにインターンシップを行うとなると、受講や研究に費やす時間などほとんどなくなってしまうから、大学院に在籍する意義そのものが失われてしまう。企業による学生採用活動の早期解禁の影響を受け、四年制学部では研究・教育水準が以前より大きく低下しているとの指摘もあるが、大学院修士課程までがそのような状況にあるとすれば、この国の未来は絶望的と言うほかない。東大や京大の大学院に在籍するアジア諸国出身の留学生などから、「来日する前は、東大や京大の学生は優秀だと聞いていたが、日本の学生はどうしてこんなに勉強しないのでしょう。なんとももったいない話ですね。修士課程修了の院生を採用する企業の場合でも、なぜ二年間しっかりと研究を積み終えるまで待っていないんでしょう。長い目で見れば、そのほうが企業のためにもなると思うのですが・・・・・・」という疑問の声が上がるほどである。日本の将来の発展を願うなら産業界もその点を深く反省する必要があるだろう。

いっぽうまた、欧米のそれとは異なり、理工系の場合であっても博士課程修了者の採用を敬遠しがちな日本企業の体質も問題だ。社会性に乏しく、ある特定領域の専門知識しかないので企業の業務遂行に支障があるというのが表向きの理由のようだが、博士課程修了者を率先して採用する外国企業との違いがどこにあるのか、この際十分に解明・検証を進めていく必要がある。知的にも人格的にも高い能力を持つ人材が少なくない博士課程修了者が、日本の場合だけは企業人となるにはふさわしくないと考える理由などどこにもないからだ。学術的に優れていても、個性が強く和を乱すおそれのある者を初めから敬遠する伝統的な日本企業の体質はそろそろ払拭しなければならない。さもなければ、厳しい国際競争を勝ち抜くことなど最早不可能になってきている。四十代になったばかりのある大学の優秀な准教授などは、あと十年もすれば企業の指導部も世代交替が進むのでその問題は解決するだろうとの見解を述べたりもしているが、現在日本企業が置かれている状況を思うと、それまで待ってなどおれられないというのが正直なところだろう。

大学院と産業界は真の連携を

さらにまた、大学院側も、博士課程においては、従来のように「学術研究の専門家」の育成のみを念頭においた指導を行うのではなく、各種の産業推進や生産技術の開発に不可欠な「高度職業人」養成を目的とする指導も行わなければならない。そして、そのためには、単なる専門知識ばかりではなく、高い教養と人格とをもつ指導者の存在が不可欠となってくる。ともすると狭い専門領域の研究のみに閉じこもりがちな近年の大学人にとっては大きな労力を要することかもしれないが、この際、それも重要な責務の一つと考えてもらうしかないだろう。そのかわり、経営合理化優先の学術行政に起因する大学教員らの膨大な雑務の解消方策を早々に講じなければならない。

もちろん、博士課程に在籍する院生たちのほうも、将来自分が学術の専門研究者を志すのか、国家の根幹を支える高度な職能や技術をもつ企業人としての道を目指すのかを自ら選択していくようにしなければならない。とくに、後者の場合などには、昨今声高に叫ばれている産学共同体制の利点を積極的に活かしていくべきだろう。ただ、産学共同実践経験が豊かでその歴史も長い欧米などとは異なり、わが国の産学共同体制はスタートしたばかりでまだ十分には機能していない。大学人と企業人との間には、共通目的に対する思惑の違いや相手への理解不足に因する様々な遠慮や相互不信などがあり、それが真の産学共同体制促進にとっての大きな阻害要因になっているからだ。

近年の学術政策の転換に伴い博士課程在籍者数が急増したことも一因だが、多くのポスドクが路頭に迷うこの国の現状は先進国としては異常なことであり、その能力及びそこに投資された教育費の損失は計り知れない。また、このような現実を前にすれば、真に能力があり将来が期待される学生であっても、経済的に不遇である場合には、博士課程進学を断念するに違いない。その対策としても授業料無料化や返済不要な奨学金制度の設立は急務なのだ。ただ、残念なことに、日本の高等教育の現状は先進諸国に比べ周回遅れになっている。

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