(未来へと羽ばたく若い皆さん方へ――凡庸な老輩の贈るささやかな想い)――②
特定分野の探究は不可欠なのですが、ときには広い学問の世界を鳥瞰(ちょうかん)してみることも必要でしょう。その具体的実践のひとつとして、たとえば、兵庫県佐用町にある、世界最先端の巨大光科学研究施設Spring-8などのようなところを見学するのも一法ではあるかもしれません。以前に私もこの研究施設の学術研究成果集の執筆と統括編集責任者を務め、さらには、一時期、同研究センターの先端研究を紹介する「スプリング・エイト・ニュース」の執筆を担当したこともありました。日本の諸大学の先端研究者はもちろん、海外の大学や研究所からも研究者が集まり、文科系・理科系の枠を超えた広い研究が推進されているこの施設は、将来の日本を背負う若い人々にとっても一見の価値があるでしょう。
年に何回かある施設公開の際には熱心な高校生などの見学者も少なくありません。この研究所で実践された基礎研究を通して、将来数々のノーベル賞受賞者が現れることも期待されています。理化学研究所所属のこの研究所長や副所長は国内でもトップクラスの学術研究者なのですが、人格的にも立派で、若い人々に向けた対応や配慮なども真摯そのものであり、しかも文学や芸術に対する造形も極めて深いのです。日本にこんな優れた科学研究施設があることがあまり知られていないのも、ある意味では問題なのかもしれません。
若い皆さんが未来に向かって飛翔するに際し、諸々の問題と対峙することは不可避でしょう。その場合において、提示された問題を解決する能力はむろん重要なのですが、それ以上に大切なのは「問題発見能力」を身に付けることなのです。自分の研究や社会的業務の内容を深めていくには、与えられた問題を単に解決する「問題解決能力」だけでなく、この世界にとって何が問題なのか、自然界の奥にどんな謎が隠されているかを知覚し、それを明示してみせる「問題発見能力」が不可欠なのです。世界の一流研究者などは皆その種の能力を身につけているものですが、残念なことに、近年の日本人、とくに若年層の人々に欠落しがちなのがこの「問題発見能力」なのです。そこには、与えられた問題の正解だけを求める日本的教育の現状が少なからず影響しているのかもしれません。
寺田寅彦という昔の物理学者で著名な作家でもあった人物が、「研究者には頭の悪さが必要だ」と言った趣旨のことを書き述べています。俗にいう頭の良い人、換言すれは表面的な理解力のみの高い人は、ある問題を前にしたときすぐに解った気分になって奥に隠れた重要な問題を見逃したり、その問題の解決は困難だからと、それに正面から向き合うことをはじめから回避したりしてしまいがちだというわけです。その点、良い意味で頭の悪い人は、じっくりと時間をかけてその問題と向かい合い、奥深いその本質を探るべくどこまでもそれに喰らいついていくため、却ってそれまで誰もが発見できなかった解決の糸口を見出すことができたりし、不可能と思われていたその難問を解決するに至ったりするというわけなのです。それはまた、たとえ入学試験で良い成績をとったとしても、先々の専門研究においてはその程度のことではとても通用しないという話にも繋がるものでもあるのです。
この種のこだわりの精神は、別の言い方をすれば、源流に向かって遡上する心構えの大切さということにもなるのかもしれません。ある分野の知識をその源流(原点)に向かってどこまでも遡ることは、川の源流を探し求めて幾つにも分岐する川筋のひとつをその最奥まで辿り極めることにも類似しているかもしれません。川筋のひとつを水の湧き出る原点まで遡上することを通して知ることができるのは、その川筋のみに関わる知識や情報だけではありません。その経験をもとにして、私たちは他の多くの川筋を含む川全体の構造やその本質的な姿態を想像したり理解したりすることができるようにもなるのです。
大河(この大いなる世界)の上流で無数に分岐する川筋のうちのひとつ(ある特定の専門領域)をその源流までどこまでも遡れば、他の無数の川筋(他者の専門領域)を遡ってみなくても(実際、それは不可能なことですが)、大河全体の構造の大要を把握することはできるものなのです。その過程は、「思考の転移」と呼ばれたりすることもあります。
自分が遡った川筋以外の川筋の様子を具体的かつ詳細に知ることができるわけではありませんが、それぞれの川筋のもつおおよその構造やそれらが織り成す景観はひとつの川筋を自分なりに探究した経験をもとにして、それ相応に想像することはできるからです。
もちろん、他の川筋を遡行する人々の悲喜こもごものドラマに満ちた体験の詳細は現実にその川を遡った人にしか分かりはしませんが、それはそれで構わないことなのです。大河の流れとその源流の構成を大局的に想像できればそれで十分なわけですから……。ただ、たとえ無数の川筋のひとつではあっても、実際にその源流地まで遡った経験を持つ者でなければ、壮大な大河の流れ全体の構造を想像することはできないものなのです。
(他者との真の出合と交流とは)
人生行路の途上における様々な人との出合いを生かすことは重要です。たとえそれが一期一会の巡り合いであったとしても、それまでの自分とはまるで異なる道を歩んできた未知の人と出合い、そこから得られる様々な知見を生かすことによって、その人の人生観は大きく広がっていくものです。そしてまた、その出合いを通して構築される人と人とのネットワークは極めて貴重なものとなり、それに関わる人たちばかりでなく、社会全体にとっても何かしらのかたちで少なからず貢献できるようになっていきます。
ただ、ここで言う、人と人との出合いとは、相互依存関係の強い、べたべたしたいわゆる「お友達的な関係」を生み出すような出合いを意味するものではありません。それぞれに孤独な道を孤高な精神を秘め持ちながら歩く人間同士がたまたま出合い、自立したそれぞれの人生観や知識・知見を相互に敬い認め合いながら築き上げる関係のことを意味しています。近からず遠からず、それでいていざというときには緊密に機能する不思議な関係とでも言ったほうがよいのかもしれません。
私自身の経験で言えば、直接に数々の文学的な教えを賜ることになった作家水上勉先生などとの出合いとそれに続く親交などはその典型的な事例でもありました。初めて出合った際に、先生は「私はこれという人物と出合った際は、そのあとべたべたした付き合いはしない」とおっしゃったものです。私自身はたいした人間ではありませんでしたが、それでもなお、その一言は、ある意味で水上先生ならではの私へのエールではあったのかもしれません。水上先生との出合いを介して、私は、故人の筑紫哲也さん、同じく故人の永六輔さん、さらには現在も活躍中の倉本聰さんらとも深く交流することができたものです。また、そんな経験を。通して自らの知見を高めることもできました。