時流遡航

第35回 原子力発電所問題の根底を探る(1)(2012,04,01)

福島第一原子力発電所の大事故は1年を経た今も国内外に大きな波紋を巻き起こしている。原発存続の是非に関する論争は止まるところを知らないが、この場では特定の立場を一面的に支持する議論を展開するのではなく、まずはその難題の根底に秘められた諸事実を少しずつ掘り起こしていくことにしてみたい。そうすることによって、今後この問題を考えていくための何かしらの足掛かりでも提示することができるようなら、非力な身としては幸甚の極みである。原発存続か、即時原発全面廃止か、それとも段階的原発廃止かの最終的判断は、諸賢の見識に委ねることにしたい。

原発問題のように複雑多様な近代史的背景を持つ事象を考察する場合、現在の価値尺度や視点のみをもって過去の出来事を展望するだけではその本質は見えてこない。想像力をなるべく大きく働かせ、極力過去に視点をとり、その時代の価値尺度をもとに現在の方向を照らし見ることも必要なのである。喩えて言うなら、自分の持つライトで対象物を照らし出すばかりではなく、離れたところに置かれたライトに照らされ浮かび上がる自分自身の姿やその影の有り様をも眺め見ることが不可欠なのである。そもそも「歴史的想像力を働かせる」とは、過去に光源点を設け、拡散的に広がる光で現在へと続く空間を照らし出すことにほかならない。その作業を抜きにしては、重大な問題を歴史的な視点から省察することなど不可能なのである。それゆえ、ここでは日本への原発導入の動きが始まった1955年当時の状況から述べ始めてみることにしたい。

草創期の原子力政策について

1945年の終戦から10年が経ち、ジェネラルエレクトリック社やウエスティングハウス社などによる原子力発電技術の開発が進むと、米国は将来的な原発ビジネスを睨んで周到な戦略を立て、世界各国にその技術の積極的なアピールを展開し始めた。なかでも、敗戦後の荒廃から立ち直り急速な経済発展を遂げつつあった日本はその格好のターゲットとなった。原子爆弾という凄惨な破壊兵器に用いられた巨大エネルギーが電力というクリーンで平和的なエネルギー生産に転用できるというアピールは、日本の政財界やメディア界の指導者たちの心を強く捉えた。世界唯一の原子爆弾の被爆国として核エネルギーの恐怖を熟知させられていただけに、その核力を平和的に利用できるというアピールが却って日本人の心理を微妙に揺すぶった節もなくはない。日本の科学者ら知識人の中にもそのアピールを肯定的に受け取った者が多かったという事実がそのことをよく物語っている。

米国主導のそのような動きに伴い、政財界の指導者の間には「夢のエネルギー」を日本にも早期導入すべきだという機運が高まった。なかでも国務大臣だった正力松太郎読売新聞社主はその実現のために奔走し、政財界の意向を纏めるという重要な役割を果たした。それでなくても絶対的に米国追随型の政治経済政策をとっていた当時の日本に、時間をかけ慎重に原発技術導入の是非を検討することなど許されはしなかったのであろう。その流れを受けて1956年5月には原子力委員会が設立され、科学技術庁などの関係各省庁は原子力行政を担当する特別な部課を設置した。そして、原子炉とはどのようなシステムなのか、原子炉を導入するにあたって行政的には如何なる対応をとるべきなのかなどについての検討を開始した。

また、その検討過程を通じて、東芝は沸騰水型原子炉の、三菱は加圧水型原子炉の導入とそれに付随する諸技術の研究を担当するようにとの取り決めがなされた。さらに、燃料用濃縮ウランは米国より輸入し、国内では重水や減速材として不可欠な黒鉛などの原子炉材料研究を促進するようにとの方針が定められた。この時期、米国大統領アイゼンハワーは原子力の平和利用を高らかに国内外に提唱しており、それを受けた日本の政財界も学術界も原子炉というものを肯定的に捉えていた節がある。今からすれば信じ難い話だが、この時点ではその負の側面が十分には理解されていなかったのであろう。

アルゴンヌ原子炉技術学校へ

米国は原子炉技術を世界に普及させるためアルゴンヌ国立研究所に原子炉技術学校を開設し、各国から研修者を集めて一連の原子炉技術の指導を行っており、我が国からも関係省庁の技術官僚や大学の研究者、メーカーの技術者などが原子炉技術修得のためアルゴンヌへと派遣された。この学校には世界の28ヶ国から研修者が参集し、1クラス10名からなる組分けのもと研修指導が進められた。10期にわたる日本からの研修参加者総数は29名にのぼり、その内訳は大学研究者3名、行政官7名、日本原子力研究機構関係者9名、電力会社技術者3名、メーカー技術者7名であった。

旧科学技術庁から第1期生として同校に派遣された人物の話によると、当時の日本にはまだ原子力工学なるものが存在しなかったので、渡米後は文字通りゼロからスタートし、原子力の世界の初歩から勉強しなければならなかったという。本来は船舶工学が専門だったというこの人物をはじめとする日本人研修者らは、原書を山のように買い込み、死にもの狂いで猛勉強を重ねたのだそうだ。国を背負っているという意識に加え、各国から派遣された優秀な研修者との競合という一面もあったから、その勉強ぶりは身体を張った凄まじいものであったらしい。

アルゴンヌ原子炉技術学校において、研修者らは、原子炉燃料のペレットの造り方や核分裂反応減速材の製法等の修得に始まり実験炉の実操作に至るまでの、一連の原子炉技術を体系的に教え込まれた。また、それと並行して、放射線の遮蔽実験や犬を用いたプルトニウムの影響の調査研究などにも参加した。ただ、現在とは違って、人体に対する放射線の被曝許容基準量などもまだ明確には規定されていなかった当時のことゆえに、各種実験や技術研修の過程で浴びた放射線量なども定かではないのが実情であった。日本から参加した初期の研修者らは放射線被曝の影響で一種の無精子症的な症状を被り、多くの者が帰国後10年近くは子供ができない事態に直面することになった。ただ、原子炉技術開発黎明期のことでもあったので、新技術修得への期待感のほうが優先され、その種のリスクは国を背負った職務上のことゆえやむをえないと受け止められていたようである。

研修者に対する米国側の対応は鄭重で、研修費や交通費、滞在費はすべて米国から支給されたほか、様々な実験や調査を遂行するための研究環境や米国滞在中の生活環境などにも最大限の配慮がなされていた。現在とは違って、原子力関係の最先端技術の公開や提供、原子力行政に関する実務指導などについても米国側は積極的であったという。各国からの研修者を介してそれらの技術が自由に国外に広がることを容認することによって、間接的に世界の政治経済をリードできるという確信が当時の米国にはあったからでもあるらしい。

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