時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(6)(2013,06,01)

現在の宝島社の前身、JICC出版から依頼を受け、教職員や学校教育研究者対象に「LOGOと学習思考」という著作を執筆したのもこの頃のことである。同社は教育書籍専門の出版社ではなかったが、この本は当時のコンピュータ教育関係者らに広く読まれ、諸々の学術論文などにも引用された。この時代、私同様にLOGO言語を探究しLOGOに関する専門書を執筆していた研究者としては小谷善行東京農工大学教授が、また、学校でのLOGO教育の実践者としては、石川県の小学校教諭・戸塚滝登さんが知られていた。

JICC出版からは、アドベンチャーゲームに没頭した経験を活かし、主要五教科の内容を総合的に織り込んで制作した教育アドベンチャーゲーム「知恵の勇者の物語」を出させてもらったりもした。ただ、こちらのほうは、時代を先取りし過ぎたうえに、当時のパソコン性能の限界に伴うプログラムの機能不全などもあって、世の中に知られることなく終わってしまった。それら一連の仕事を通してお世話になった編集長の佐藤信弘さんは、JICC出版が宝島社へと社名変更になってのち、IT分野の編集長からアンチIT分野の編集者へと一大転身を遂げ、およそコンピュータとは無縁な「田舎暮らしの本」の編集長となった。その煽りで私もまた「田舎暮らしの本」でIT世界とはまるで無関係な旅情絡みの原稿を折々書かされる羽目になった。10年以上経ってからのことだが、その佐藤さんが「知恵の勇者の物語」のことを回想し、「パソコンの性能も飛躍的に向上し、皆がゲームに興じる今の時代だったら十分に評価もされたのでしょうが、あまりにも時代を先取りし過ぎましたね」と苦笑しながら呟いたのが何とも印象的だった。

(ソフトウエアで立遅れた日本)

英米などの欧米先進国に倣い、アジアにおいて学校教育にLOGO言語やコンピュータを全面導入したのはシンガポールが最初だった。そして90年代初頭までには同国はアジアにおけるコンピュータ教育の最先進国になっていた。将来、ソフトウエア技術が重要になることを認識していたからである。精密機器製作技術をお家芸とする日本は、80年代までコンピュータ機器類やコンピュータ素子類の開発、すなわちハードウエアの製作では世界の先端を走っていたのだが、それらの機器を効率的に操作したり、高度な活用法を開発したりするために不可欠なマシン語、アセンブリー言語、OS(オペレーションシステム)、各種高級プログラミング言語の開発、さらにはそれらの言語類を構築するための高度なアルゴリズムの体系的研究にはほとんど無関心で、力を注いでいなかった。

それに較べ、言語学や論理学の基礎研究に造詣深い欧米先進国の研究開発者らは、ソフトウエアと呼ばれるそれらコンピュータ言語類の将来的な重要性をいちはやく認識し、アプリケーション制作に必須の基幹ソフトウエアがIT機器開発競争の命運を左右することを予見していた。そして、ほどなくその予見は現実のものとなった。OSのMS―DOSにはじまり、高度なアルゴリズムや演算処理プログラムを組み込んだインテル社のICチップやCPU、IBM社の各種プログラミング用高級言語ソフト、さらにはマイクロソフト社のWINDOWS、アップル社の特殊なソフトウエア技術や高機能機器群の登場によって国内コンピュータ・メーカーは圧倒され、自社のマシンにはそれら外国製技術を搭載するしかなくなった。国内メーカーがその重要性に気づいた時には、彼我の基幹ソフトウエア開発技術力の差は決定的となり、追いつくことなど最早不可能になっていた。先端的なコンピュータ・プログラミング作業とは、常に独創的な記号言語を構築し、それらを重層的に駆使することによって時代を超えた一種の前衛詩を創作していくようなものなのだ。それは文字通り言語創造や言語表現の世界にほかならない。近年社会問題になっているコンピュータ犯罪の防止が不可能なのは、コンピュータが常に進化と変化を続ける記号言語の特殊構造体だからである。

(LOGOの末路とその要因)

80年代初めから教育現場においで体系的なソフトウエア学習が実践され、そこでコンピュータ言語構築の原理や基礎技術の習得が進められていたら、日本でも高度な基幹ソフトウエアを開発し世界のIT業界をリードするする人材が輩出していたかもしれない。理研のスーパーコンピュータ「京」はそれなりに優れたマシンではあるが、当初の計画と異なり、スカラー演算処理系しかない片肺飛行のマシンになった。もう片肺に相当するベクトル演算処理系を構築するソフトウエア技術者が決定的に不足した所為である。演算速度が一時的に世界一になって注目はされたが、総合処理能力では欧米や中国のスパコンに抜かれてしまい、演算速度自体も最早世界一ではなくなってしまった。ベクトル処理系の不備が研究者に与える負担(それを自力で構築しなければならない)も甚だ大きい。

90年代初頭には東京書籍に出向き、同社刊行の数学教科書の執筆・監修をしている数学の専門家相手にLOGOのデモンストレーションを行った。そのあと同社の編集責任者から、現役教師集団に私をサポートさせるので、LOGOによる数学教育の本格展開について協力して欲しいとも要請された。だが、国内のLOGO熱はこの頃がピークでそのあと一気に醒めていき、ほどなくその存在自体が忘れ去られていくことになった。

その原因は複合的だが、教育環境と教育内容の平等性や同一性を絶対視する日本の教育制度が問題だったとは言える。LOGO教育の場合には機器類や必要ソフトウエア類の準備と指導者の養成に膨大な費用と時間とがかかった。また、単に応用ソフトの操作法を教えるのとは違い、LOGO言語によるプログラミング技術や、LOGO教育で扱う数理科学カリキュラムの内容・特性を十分理解していなければならないから、担当教師には当然指導面での力量差が生じた。一方、生徒たちの側にも、個性差や対象テーマに対する関心の有無、習得技術の応用能力の違いなどによって理解度や学習到達度に著しい差が生まれるうえに、画一試験による成績評価は至難であり、国内全ての学校において同時にしかも同水準の教育を実践することは不可能であった。また、欧米とは異なり、LOGO教育を論じ導くべき教育学者らが、自らはLOGOを体験したこともなく、体験する気もないという問題もあった。文部省にいたっては、「10年間は内容改更不要な検定教科書が作れるか。さもなければ教育界や国民の承認は得られない」という、IT世界にとっては非現実的な要請をしてくる有り様だった。そんな状況のゆえに、筆者が開発蓄積した多数のLOGO関係応用ソフトウエアや膨大な量の執筆原稿は全て無に帰することになった。唯一の救いと言えば、後に、LOGO教育を着実に進めていたインド筋から要請を受けてそれら一切を無償提供し、同国の教育現場で実際に活用してもらえたことくらいであった。

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