時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(5)(2017,01,01)

伊豆半島戸田(へだ)~北から来たもうひとつの黒船とは?――③
実質的にはわずか3ヶ月弱という驚くほどに短期間での戸田号建造作業であったが、千載一遇とでも言うべきその貴重な経験を通してスクーナー型帆船の製作技術を徹底的に習得した船匠らは、ロシア人一行が帰国したあとも6隻の同型帆船を次々に完成させ幕府に納入した。また、それら船匠やその弟子たちは、江戸、横須賀、浦賀、長崎、大阪、神戸など国内各地の造船所に散り、のちに飛躍的に発展していくことになる日本の造船業界の礎を築いていった。何とも意外なことではあるが、そのような意味では、当時の日本がロシアから受けた技術的恩恵は、ペリー提督以下の米国艦隊から受けたそれよりもずっと大きかったと言わざるをえない。
クリミア戦争の最中における母国の切迫した事情により、ロシア人一行の帰国は急を要していた。そのため、実際には戸田号完成直前の1855(安政2)年2月末に、約150人のロシア人が米国船籍の傭船カロライン・E・フート号によって帰国の途に着き、プチャーチン以下のディアナ号艦員の首脳部約50人だけが完成したての戸田号で3月22日に戸田をあとにしカムチャッカ半島へと向かった。そして、さらに残りの300人ほどのロシア人たちは6月1日にドイツ船籍の傭船グレタ号に乗船して母国への帰還を試みた。だがこの一行は途中でロシアと対立する英仏側の軍隊によって拘束されるところとなり、そのまま捕虜として収容されたため、実際に帰国できたのは数年後のことだったらしい。
律儀なことに、日本の対応に感謝したロシア政府は、翌年10月に幕府へ贈る52門の大砲を搭載したうえで戸田号を徳川幕府に返還した。ハバロフスク経由でいったん戸田へと回航された戸田号は、のちの函館戦争の際に榎本武揚の指揮下に入って官軍と激闘を繰り広げ、遂には敗れてその地で廃船となったのだった。当時のロシアの首都サンクト・ペテルブルグに戻り、のちに海軍大臣となったプチャーチン提督には、日露友好の功労者として明治政府から勲一等旭日章が授与された。また、1887(明治20)年にはプチャーチンの娘オリガ・プチャーチナ女伯が、父の受けた厚情に謝意を表するため戸田村を訪れて関係者に記念品を贈り、さらに彼女は永眠間際に100ルーブルを戸田村に寄付するようにと遺言した。そしてそれ以降、ロシア人と戸田の人々との間では、その後の時代のもたらす諸々の不幸な出来事を超え、今日に至るまで絶え間なく親交が続けられてきたのだという。
気紛れな歴史のなせる業としか言いようのない話なのだが、明治時代末期には満州や朝鮮半島一帯の支配をめぐって日露戦争が勃発する。そして、東郷平八郎率いる日本海軍がロシアのバルチック艦隊を対馬沖で殲滅させたのを契機に、米国の仲介のもとでロシアとの間にポーツマス条約を締結し、満州と南樺太の支配権を我が国が獲得するかたちで戦争は終結したのだった。その対馬沖海戦において奮戦した日本海軍の諸艦船を建造したのが、戸田村でのスクーナー型帆船戸田号誕生に端を発する国内各地の造船施設であったことを思うと、何とも皮肉な歴史の展開だったと言うしかない。
さらにまた、第2次世界大戦終結前後に、日ソ不可侵条約を破棄してソ連軍が満州や樺太、国後、択捉一帯に侵攻し、それがもとで不安定かつ解決困難な現在の日露関係へと至ってしまった。しかも、米・英・ソの3首脳によるヤルタ会談で、個人的独断のもと日ソ不可侵条約を破棄するよう秘密裏にソ連のスターリンを唆(そそのか)したのが米大統領ルーズベルトだったということになると何をか言わんやでる。国際間の政治的駆け引きの無情さというものをあらためて痛感するのみだ。北方4島の返還問題が容易には進展しないのを目の当たりにするにつけても、相互の領土欲がもとで一旦傷ついた友好関係を元に戻すのが如何に困難なことであるかをひたすら思い知らされるばかりである。
(造船郷土資料博物館の見学推奨)
現在、戸田湾を囲むようにしてのびる砂嘴先端部の一角に、美しい松林に囲まれた造船郷土資料博物館が設けられている。現在は沼津市に属している戸田だが、少し前までは戸田村というひとつの自治体を形成していた。その戸田村が造船郷土資料博物館を設立した主目的は、ディアナ号や戸田号に関係する各種の貴重な資料を収集保存し、後世に伝え残すことであった。ただ、同博物館を建設しようとした1969(昭和44)年当時、戸田村の財政にはそれほどの余裕はなく、村の計画担当者は必要な経費をどう捻出するかで苦心していたらしい。
ところがそこに思わぬ救いの手が差し延べられることになった。日本が全面的に依存する米国と社会主義国の旧ソ連とは、当時先の見えない冷戦関係にあったにも拘らず、博物館建設計画の話を知ったソ連政府はその頃の金額としては多大な500万円を寄付してくれたのだった。また、その翌年に開催された大阪万博のソ連館には戸田号の模型も展示されていたが、万博閉会後にその模型は戸田村に寄贈され、今日に至るまで同博物館の部屋の中央に展示されている。もちろん、複雑な外交戦略の絡む当時の政治情勢下のことゆえ、当然ソ連側にもそれなりの思惑はあったのだろうが、ともかくもその造船郷土資料博物館は完成を見たのだった。そして、ソ連が崩壊しロシアとなった今でも、同館は日露間の友好の懸橋として重要な役割を担っている。ソ連の時代から現在のロシアに至るまでの間、日本に初めて着任したロシア人外交官はこの戸田の地と同博物館を表敬訪問するのが絶対不可欠の習わしになっているのだそうだ。
現在、この博物館の入口右手には、巨大な鉄製の錨が配置されている。駿河湾で沈没したディアナ号の錨で、のちに偶々漁船の網に掛かるかたちで発見され、海底から引き揚げられたものだという。内に秘められた数々の人間ドラマを無言のうちに伝え示すその錨の不思議な存在感は圧倒的である。戸田を訪ねる旅人の多くは、風光明媚な戸田湾や富士山の光景と深海魚料理にだけ心を奪われ、そんな博物館があることさえも気づかずに同地をあとにしてしまいがちなようだが、折角戸田の地を訪ねたからには、是非とも同館に足を運んでほしいものである。
博物館内には詳細な解説付きで、数々の資料が展示されている。下田で津波に遭遇してから駿河湾奥で海中深くへと沈み去っていくまでのディアナ号の一連の航跡や具体的状況などの説明にはじまり、プチャーチン提督をはじめとする艦員らの写真や手描きの容姿図、さらには戸田村住民との交流の様子、戸田号の進水式の光景などを伝える興味深い諸資料も豊富である。スクーナー型帆船の建造に際し、川路聖謨が各地から招聘した著名な7人の船匠らの遺影やその業績に関する文献も少なからず残されている。

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