時流遡航

《時流遡航316》 日々諸事遊考(76) (2023,12,15)

(「平均」という概念の負の側面を考察する)
平均という概念は、常々、社会のさまざまな事象の概要を把握する手段として当然のように用いられている。それは統計学における最も基本的な考え方であり、小中学校などでも、その算定法を通して求められる数値の意義を実生活と結び付けて学ばされるくらいである。それゆえに、通常、その概念の背景や負の側面について想いを廻らすようなことは殆どない。
(小学生の質問にどう答えるか)
時速4kmで歩く人が12km離れた地点に到着するまでに要する時間は3時間だとか、逆に、12km離れたところに行くのに3時間を要した場合、その時速は4kmであるとかいった計算をするとき、一連の算定プロセスの適否を考えてみることもなく、ほぼ無条件でその結果を受け入れられているのが平均値の概念にほかならない。
しかし、現実の世界の道というものは、同じ一筋の道路ではあっても、途中に急な坂道や狭くて歩きにくい細道があったり、深い草叢に覆われたところや岩だらけで段差の多い箇所があったりするものだから、一定速度で進むことなどできはしない。また、同じ12kmの距離の道であっても、その地理的条件や周辺環境は千差万別であるがゆえに、歩行速度や歩行に要する時間などは個々の道によって大きく異なり、一定とはなり得ない。たとえ平坦そのもので隅々まで整備され尽くした直道であったとしても、疲労による歩行能力の低下やその日の体調の善し悪し、さらには身体的能力の個人差などを考慮すると、歩行速度や所要時間はそれぞれに異なったものとなる。従って、何かしらの理由で分単位や秒単位の違いが重要とされるような場合には、この種の平均速度や平均所要時間というものは無意味なものになってしまう。
少々意地悪な事例にはなるのだが、「時速4kmで歩く人が12km離れた隣町まで行くのに何時間かかりますか」と先生に問われた小学生が、「先生、僕には正解がわかりません。途中に坂道があったり、狭いところやぬかるみがあったりしたら、同じ速さで歩き続けることはできないからです」と答えたとしてみよう。そんな時、教師の側は、「何を言っているのですか。君はこんな当たり前のことも解らないのですか」とその生徒をなじってしまいがちなものなのだが、実はそんな小学生ほど高い潜在能力を秘め持っていることを忘れてはならない。そもそも、そんな小学生の真剣な疑問に対し的確な対応をとることは、その道の専門家にとってさえもけっして容易な話ではない。そのためには、現実世界の実態とは乖離した平均値という架空の数値が何故必要なのか、また、その利点と欠点とは何なのかなどについて、極力解り易い説明をしなければならないからなのである。
 平均の概念が用いられる事例として誰もがよく知るもののひとつに、「平均所得」なるものがある。経済的格差社会そのものとも言うべき昨今のこの国の状況下にあっては、平均所得なるその数値に違和感を覚え、自分とは無縁のものだと感じる人々も少なくないことだろう。平均という概念が、時と場合、さらにはそれが対象とする事象によっては極めて現実離れしたものになってしまう事例として、平均所得というこの算定値を取り上げてもよいくらいではなかろうか。むろん、ある社会的事象の特徴的様態を抽象し、その概要を把握するには不可欠な手法なのだが、その裏で対象事象の構成要素の多くを不要なものとして切り捨て排除する「捨象」という行為がなされていることを忘れてはならない。
 よく知られる諺に「木を見て森を見ず」というものがある。個々の小さなことに拘り過ぎ、全体的かつ総合的な視点に欠けることを諌めた諺ではあるのだが、昨今の世相にあっては、むしろ、「森を見て木を見ず」という逆の格言を提唱でもしてみるほうが相応しいのかもしれない。それはまた、物事を深く考えることもなく無条件で平均的概念のみを受け入れ、個々の要素の具え持つ重要な意義を無視する愚行を諌めることにも通じている。
 一方、統計学には個々の要素の平均値や標準値からのずれの度合いを検証するため、偏差値という概念が存在してもいる。本来、偏差値とは対象事象全体の平均像から見た個々の要素の立ち位置を表すものだから、偏差値が高ければ良く、また偏差値が低ければ悪いというものではない。たとえば国民全体の体重についての標準値をもとに、ある人物の偏差値を求めた場合、偏差値が高ければ太り気味、偏差値が低ければ痩せ気味ということになるわけだから、この事例などでは異常に偏差値が高い場合は太り過ぎで健康的にも好ましくないことになってしまう。だが、近年の日本にあっては、偏差値というものが大学受験生などの学力判定の指標としてしか用いられなくなっているため、偏差値は高いほど良いなどという誤解をも生むようにもなってきている。統計学も舐められたものである。
(平均像と現実像の乖離を想う)
「平均の概念」の問題点や、「森を見て木を見ず」という通常とは真逆のいささか皮肉を込めた言い回しに固執したのは、実を言うと、昨今の国内政治の救い難い惨状、さらにはウクライナやイスラエルで起こっている凄惨このうえない戦乱の現況などにそれらの視点を重ね見たからである。時々の国政の指導者や政治的運動のリーダー、さらには世界の遠い地域で起こっている戦乱を傍観する自らを含めた外国人などは、「平均の概念」、すなわち「森を見て木を見ず」という概念に、無意識のうちに毒され切ってしまってもいる。
一国の首相や諸大臣など国政の中枢に位置する人物らが、国内の現況を把握するため、ある程度その概要、すなわち平均像に依存するのはやむを得ないことではあろう。前述した平均所得の算定値などはその事例のひとつにほかならない。為政者らが、その種の平均像には格差社会下層部の多くの人々の生活実態とは大きく乖離した一面があることを十分自覚しているならまだ救われる。しかし、昨今のこの国の諸行政面に見る様相は、「森を見て木を見ず」という表現そのままの状況下にあると言ってよい。通常、庶民とは最も遠いところにあると思われがちな皇族の方々のほうが余程、「森」よりも「木」のほうをご覧になるよう努めておられるように感じさえするのは、この愚身ばかりではないだろう。
 翻(ひるがえ)って、ウクライナやイスラエルで起こっている凄惨な争乱の場合はどうだろう。ウクライナやロシアの大統領も、イスラエル首相やハマスの最高指導者も、対峙する相手への敵愾心を剥き出しにしているが、その心中にあるのは森を見て木を見ない態度そのものである。国家という平均的思考概念に捉われ、相互の民衆個々人が抱える凄絶な惨劇や悲哀の数々に国境を超えて想いを馳せる素地など皆無に近いからなのだ。さらにまた、そんな惨状を遠くから傍観する外国人の場合も状況はまったく同じである。譬え周囲から蔑視されようと、この時代、敢えて「木を見て森を見ず」の愚行に身を委ねる決意が必要であるのかもしれない。むろん、「木も見て森も見る」ことこそがベストではあるにしても……。

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