(人間というものの宿命的本質について考える―⑤ )
世界平和というものを至上の理念として掲げ、その実現を訴えることは容易だが、個々の人間の本性というものを思うと、その具体化に際してはひとかたならぬ覚悟と決意が不可欠となるだろう。一方には、世の常として、平和主義者を「平和ボケした人間」と揶揄する勢力が少ななからず存在する。無論、そんな揶揄嘲笑に同調するつもりなど毛頭ないのだが、人間の深層心理を考えるなら、その種の主張にも幾分かの理があることは事実だろう。平和主義を提唱するのなら、たとえどのように凄惨至極な事態に直面しようとも、とことん「平和ボケした人間」であり続ける覚悟が不可欠となるのだが、命懸けて尽力することを求められるその種の決断は、実際問題として至難の業でもあるからだ。
さらにまた人間の本性については意外な実態も存在している。自らやその仲間らが生死の境に瀕した際、本来なら常々勇ましいことを喧伝している人物ほど先頭に立つべきなのだが、現実にはそんな者ほど逃亡や隠遁などの卑怯な行為に走るきらいがあるらしい。それに対し、かねて穏やかで他者思いの理性的な人間ほど、自らや仲間の生死に関わるような極限状態に直面すると、冷徹至極な行動のもとその事態に臨むものだというから話は厄介極まりない。
ウクライナとロシアの争乱、そしてイスラエルとハマスとの戦闘――世界大戦のレベルの戦乱ではないにしても、当事者間には相手勢力に対する御し難い憎悪のみが飛び交い鬱積し尽くしている。しかも、各々の紛争国の背後には、表向きには国際的平和こそが肝要だと主張してやまないものの、その実は狡猾至極な国々の影が見え隠れもしているから、始末の悪いことこのうえない。人的にも物的にも甚大な喪失と損壊との伴う戦乱というものは、直接の当事国には凄惨かつ絶望的な事態のみを惹き起すが、軍需産業や重工業、建設業、エネルギー産業等を国是とする背後の国々にとっては、結果的に多大な利益を生みもたらすことにもなる。かつての戦後期の日本が急速な経済発展を遂げた背景のひとつに、朝鮮戦争特需やベトナム戦争特需といったものがあったことも忘れてはならないだろう。
ヒンドゥー教のシバ神の話ではないが、破壊と創造を、さらには損失と利益とを同時に具現させるのが戦争というものの特質なのだと言ってもよい。皮肉なことかもしれないが、世の中が平穏で極度に安定していると変化が止まり諸事象の循環が滞るから、産業経済は停滞する。そんな状況を真っ先に打開してくれるのが戦争というわけなのだ。一時的に世界は大混乱に陥るにしても、最終兵器と称される核兵器を用いた国際間の全面戦争にでもならないかぎり、他国の犠牲のうえに必ずや莫大な利得を得る国が現われる。そんな状況には堪え難いと思い、徹底した平和主義を貫徹しようとするならば、先端科学技術を含めた諸々の新技術類の開発や経済的成長への願望を抑制し、負の側面を承知で現状に甘んじる覚悟が必要となってくる。平和的で過度の競争などない安定した世界の発展を思い描くのはよいのだが、人間というものの本性を熟慮検討してみると、そんなものは絵に描いた餅にも近い。端的に言えば、発展の原動力は熾烈な競合や闘争にほかならないからなのだ。
「平和」という理想の実現の前提となるのは、宥和や融和の概念だろう。ちなみに、宥和とは、相手の態度を大目に見て仲よくすることを言う。そのためには相手の無礼をも許すだけの度量が求められる。また融和とは、対立的な要素をなくすべく調和すること、すなわち、互いに打ち解け気持ちを通じ合うことを言う。どちらも多大な寛容さと自己抑制を不可欠とする極めて実践困難な概念にほかならない。個々人の間であったとしても、人生観や価値観が全く異なる場合などは極めてその実践が難しい概念だから、それが社会思想や政治体制が相反する国家間での話となると、その具現化は絶望的であるとさえ言ってよい。他者への同和よりも差違を優先するほうが現人類の不可避な特性でもあるからだ。
(寛容さに限界ある人間の本性)
極端な事例にはなるが、親族が殺戮されたり、自らがひどい傷害を負うような犯罪に晒されたりした人間で、その犯人を許容できる者がこの世にどれほどいるだろう。詐欺や窃盗で大損害を被った人間で、その張本人の立場や犯行の動機を汲み取ってその行為を許し、相手と宥和できる者がどれだけ実在するのだろう。皆無とは言い切れないまでも、そんな人物を探し当てることは至難の業に違いない。たとえ何処かにそんな人物がいたとしても、稀代の奇人として扱われる可能性さえもある。しかし、真摯なそして不可避な現実問題として、国際的平和理念の実践と貫徹を遂行しようとするならば、それくらいの覚悟と寛容さとが要求されるわけなのだ。第2次世界大戦で多数の相手国民を殺し合った日米間や日中間の関係が当時とは異なり現在それなりには安定した状況に至っているのも、相互に憎悪に満ちみちたそんな極限状況を、時間をかけて克服したからにほかならない。
もちろん、それは、全面降伏というかたちで一方が他方に大きく妥協、譲歩したり、強力な第三勢力が仲介調整に入ったりした結果であり、またそこまでいかなければ事態を収束できなかった集団心理のおぞましさをも改めて自覚しておくべきだろう。ウクライナやガザでの紛争の悲惨さを直接実感することのない日本人の誰かが、「ウクライナはもうロシアに、またイスラエルはガザを支配するハマスに大きく宥和し妥協すべきだ。それが多数の民衆を救済し、世界平和を実現する唯一の道だ」と強硬に主張したとしてみよう。その人物はたちまち厳しい批判に晒され、下手をすると命の危機にすら瀕するかもしれない。常々平和の重要性を謳っている日本であっても、欧米への依存性の強い国民の心奥には、ウクライナやイスラエルの立場を支持する観念がそれなりに根付きかけており、暗黙のうちにウクライナやイスラエルの反撃を正当と認めがちだからである。また一方、ロシアやハマスを支持する立場の国々ではそれと真逆のことが起こってもいるわけだから、この種の紛争が容易に収束するわけはない。絶対的正義など元々存在し得ないから、惨状は深まりゆくばかりである。
我々は人間を殺戮することは残虐だと感じるが、動物の殺戮を残虐だと受け止める感性度はそれに較べると格段に低い。同じ人間ではあっても生活観や宗教観の大きく異なる人種の大量殺戮などに対しては実感が乏しく、それらの人種に間接的な敵愾心を抱くような場合には、一連の行為に対し潜在的かつ本能的な肯定感が働くことも少なくない。日常的には心中深くに眠っているように見えはしても、極めて自己に不都合な事態が生じたり、世界を二分する動乱が勃発したりすると、たちまちにして潜在的かつ宿命的な自己防衛本能が覚醒する。そして他者への際限なき攻撃に狂奔したり、自らの属する勢力と対立する相手との闘争に身をやつしたりするのが、人間という存在の悲しむべき本質なのだと断じてもよいだろう。