時流遡航

第25回 東日本大震災の深層を見つめて(5)(2011,11,05)

宮古湾の東側に位置する宮古市街の惨状もまた目を覆うばかりであった。田老を含む宮古市全体の死者・行方不明者は800名近くにのぼり、倒壊流失した住宅だけでも3700戸前後に及んだ。一般住宅のほか、宮古港の周辺一帯の各種港湾施設、水産加工所、製氷所、魚市場、商工業施設などもすっかり破壊され尽くされており、名高い漁業や観光の町としてのその復興が容易でないことは一目瞭然であった。全壊し流失した多数の建物の基礎部分だけが辛うじて痕跡を留める北部市街地を巡っているうちに高台にある神社らしきものが目にとまった。熊野神社とかいうその社の参詣口の大鳥居は完全に破壊されてしまっていたが、急峻な階段を昇り詰めたところにある二の鳥居や社殿そのものには損傷はまったくないようだった。

浸水想定地域の表示も空しく

ただ、本殿脇の社務所前には当分神職らは不在なので、神事などは一切行えない旨の注意書きが残されていた。眼下に広がる一帯の市街地の被災状況からして参詣者など望むべくもないし、そもそも神職が逗留することすら困難だろうと思われた。

形ばかりの参拝を済ませたあと周辺を眺めやると、正面参道のほかにも社殿前に通じる脇道が何本もあるのが目にとまった。今回の大津波襲来時にも近隣の住民がこの社目指して避難してきたに相違ない。東日本大震災以降三陸地方沿岸の被災各地を訪ね回るうちに気づいたことだが、海に近い集落周辺の神社であっても、社殿や祠、奥の鳥居などのあるところまではほとんど津波が到達していない。歴史的な経験をもとにして大津波からも安全な地点を選び、非常時の退避目安をも兼ねてそれらが設けられていたからであろう。

過去の大津波の際にそれら退避目安がどれほど役立ったのだろうかと考えているうちに、ふと私が思い浮かべたのは国土交通省が設置した「津波浸水想定地域」の境界を示す表示板であった。三陸海岸沿いの国道を走ってみるとわかることだが、一帯の各集落には、その地点から先が「津波浸水想定地域」であること、あるいは逆にその地点までが「津波浸水想定地域」であることを示す大きな警告表示板が設置されている。その表示板の数も規模も相当なものだから、設置費用もかなりの金額に達していることだろう。過日の大津波でそれらの表示板がどれほどの意味を持ったのかは重要かつ興味深い問題であった。

西暦869年に起こった貞観地震の際の大津波の痕跡を以前から調べていたというある研究者が、当時の津波が今回の津波の到達高度をも超える高さにまで到達していたことを示す砂層の検証結果を東日本大震災直後に公表した。そして、ゲストとしてテレビ番組に出演し、もう少し早くその結果を発表しておれば死亡者や行方不明者の数を大幅に減らすことができたのにという慙愧の念を語っていた。その話を耳にした当初は、私も、その研究者の悔しい思いはもっともだという気がしてならなかった。だが、皮肉なことに、津波被災地を訪ね歩くうちに、それとは異なる見方を抱くようになってしまったのだった。たとえどんなに正しいものであっても、そんな科学的検証の意義など無に帰さしめてしまう、人間というものの悲しく救い難い特質に思い至ったからである。

実を言うと、ほとんどの被災集落において、今回の大津波は、「津波浸水想定地域」の境界表示のあるところを超えてはいなかったようである。その意味では国土交通省の設置した警告表示板の表示内容はほぼ正しかったことになるのだが、結果的にはそれらはまるで用をなさなかったのだ。ただ、釜石の東地区の場合は例外で、「想定」など信じるなという教訓に従って小中学生を「津波浸水想定地域」の境界表示のある位置よりずっと高い位置に誘導避難させた結果、3000名もの生徒たちの命が救われた。境界表示板の地点までで避難をやめていたら悲惨な事態が生じていたはずだという。釜石の奇跡と呼ばれるこの事例では、「津波浸水想定地域」の境界表示がなんとも皮肉なかたちで役立ったのであった。それでなくても釜石市の死者・行方不明者は1300名余の多数にのぼるというから、この奇跡がなければその数は2倍から3倍にも及んでいたことだろう。

人間という存在の宿命を見る

釜石の事例は別として、現実には「津波浸水想定地域」の表示はほとんど役に立たなかった。その訳は、地域住民が日常生活においてその表示に無関心であったか、そうではなくても無視せざるを得なかったからである。住民がこぞって津波浸水想定域外に居を構えるとすれば、平地から遠く離れた高台や高所の傾斜地を選ぶしかない。三陸海岸のような地形ではそんな場所を確保するのは容易でないし、たとえ適所が見つかったとしても、そこに水道、ガス、電気、道路といった新たなインフラを整備するだけでも膨大な費用がかかる。しかもこの地域の人々の多くは海を生業の場としているのだから、いくら安全だとは言ってもそれでは仕事が成り立たない。地域の実情を知らない者が、「一律に高台移転すべきだ」などと物知り顔で唱えるのは勝手だが、現実はそう甘くなどない。最近の調査でも、津波被災住民の7割が元の場所か、そうでなくても海から遠くない平地への復帰を望んでいるのもそんな事情があるからなのだ。大震災からまだ8ケ月足らずの現時点でもそうなのだから、もっと時間が経つに連れてその傾向はより強まるに違いない。

一連の問題の根底には人間社会や我われ個々の人間が元来そなえもつ宿業が見え隠れしている。人間というものは個人で生きるには能力的に限界があり、他者との密接な連携関係、すなわち社会組織を形成していかないかぎり長期の生存は望めない。そして、それら社会組織を維持形成するためには、それに適した一定の地理的条件を満たす生活の場所の存在が不可欠となる。たとえば、海や川での漁を生業とする者が何らかの理由で一時的に海沿いや川沿いの住み慣れた平地を離れて暮らすことは可能だろうが、生活と直結しないそんな土地に長期間住むことは難しい。また、それが理論上はどんなに正当なものであったとしても、平時の状況から乖離した特定の安全基準を守り続けることは不可能に近い。

その見地からすると、海岸線から相当に奥まった不便な場所にある被災者専用仮設住宅に住む人々の多くが、近い将来、津波の危険を承知で元の地域に戻りたいと願うようになるのは必定だろうし、実際、前に述べた田老の事例でもわかるように、それを制止することは不可能だろう。日々海を眺めて生きてきた人々が山間の仮設住宅に暮らす状況を取材を通してつぶさに目にするにつけても、そんな思いがしてならない。どちらかというと、これは科学的な問題と言うより、社会学、なかでも社会心理学的な問題なのである。

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