時流遡航

第14回 先端光科学研究の世界を訪ねて(6)(2011.5.15)

惑星探査機ハヤブサが持ち帰った小惑星イトカワの微粒子の分析が行われるということでマスコミ各社の取材陣が殺到し、おかげで国民の間にもその名が徐々に浸透し始めたスプリング8だが、この施設で進められている諸々の研究全体からすると、小惑星の微粒子分析などはほんの一環に過ぎない。両者の間に明確な境界があるわけではないが、科学研究というものは基礎と応用とに大別される。スプリング8では、現在、基礎と応用の両科学分野の研究、さらには双方の境界領域に相当する分野の各種研究が進められていて、国際的にもこの研究施設の重要性は高まってきている。

基礎科学研究は、新たな普遍的科学理論の構築や未知の原理・法則の発見、未解明の現象の探究、目先の用途に縛られない基礎技術の開発などを行う分野のことで、その時点で直ちに実生活に役立つような研究をめざすのがその主たる狙いではない。成果が直ちに実益を生むこともなくはないが、通常はその研究が社会的にとって有益だと評価されるようになるまでには相当な時間を要することが多い。また、人間の知的探究心を満たしはするものの、実利性という観点からすれば、何の意味も持たないような研究も少なくない。ただし、その研究成果の有意性や有益性が広く認識されるようになった場合には、社会に対して多大な貢献をもたらし、科学史上に燦然と輝く業績となることもある。

一方の応用科学研究は、既存の基礎理論や基礎技術をもとに産業界に直ちに役立つような技術や生産手法、さらには社会的にみて実用性・実益性の高い科学技術などの開発を行う分野で、目的や使途が明確なだけに、その意義は一般の人々にも直ちに理解してもらいやすい。本来は「改革、革新、刷新」などを意味する「イノベーション」という用語で呼ばれるようになってきている最近の新技術研究開発は、こちらの分野に相当するものがほとんどだ。日本の学術振興関連資金全体の配分が、近年の風潮である成果主義に基づき応用研究に偏りがちというのも、そうしたほうが短期的には投資効果も上がり経済の活性化、ひいては国力の強化につながるからであろう。実際、公費の使途の是非を問う国民の目からしてもそのほうがわかりやすい。ただ、基礎科学軽視はいずれ国力の低下につながる。

スプリング8の基礎科学研究

当初、スプリング8は、基礎科学研究のための大規模施設として創設され、その稼働開始以来、『ネイチャー』や『サイエンティフィックアメリカン』など一流科学専門誌の巻頭を飾るような、しかも将来的にはノーベル賞候補にノミネートされてもおかしくないような数々の国際的研究業績をあげてきた。だが、そのような優れた業績にもかかわらず国内での認知度が想像以上に低かったのは、一連の研究が基礎科学中心だったからだろう。09年秋の民主党政権による仕分け会議の際にスーパーコンピュータ開発事業と並んで一時的に仕分けの対象になったのも、仕分け会議の担当者やそのサポートメンバーらが基礎科学研究の重要性を十分に理解していなかったことが大きな原因だと思われる。また、スプリング8ならびに同施設を利用する多くの研究者らが、そこで行われている基礎科学研究の内容や意義をわかりやすく国民に説き伝えてこなかったことも、そのような状況に至った遠因ではあったのかもしれない。

これまでスプリング8で行われてきた基礎科学研究の領域は、生命科学、有機材料科学、構造物性科学、電子物性科学、高圧地球科学、環境・エネルギー科学、核物理科学と多岐多様にわたる。そこで、以下に各分野の主な研究業績の概要を簡単に記しておくことにしたい。より詳細な情報に関心のある方は、筆者も執筆・制作に携わった「スプリング8学術成果集・夢の光を使ってサイエンスの謎に挑む」を参照してもらいたい。

生命科学と有機材料科学

生命科学とは、生命現象の複雑なメカニズムの解明をめざす基礎科学のことである。この分野の研究を通して得られた知識や理論は、医学や薬学研究の進展、食料・環境問題の解決などを促し、さらには、我われの生活水準の向上や経済の発展などにも貢献している。それら一連の基礎研究のなかでも、タンパク質の立体構造の解明は、生命現象の本質的な理解や新たな医薬の開発などには欠かせない。だが、細胞膜を構成する極めて重要な膜タンパク質などは、その構造決定を行うのに十分なサイズの結晶をつくること自体至難である。その点、スプリング8の高輝度放射光X線を用いれば、10ナノメートル以下のタンパク質の極微小結晶からでも精密な構造情報を取得できる。そのおかげで、網膜の視覚センサー分子ロドプシンの構造可視化、筋肉中の筋小胞体にあるカルシウムポンプの構造解明、心蔵などの細胞間を連結するギャップ結合チャネルの構造解明、細菌鞭毛タンパク質フラジェリンの構造やスイッチ機構の解明などが実現した。X線小角散乱法によるシアノバクテリアの「生体時計」が時を刻むメカニズムのリアルタイム解析にも成功している。

スプリング8の強力なX線は生体内での分子の振る舞いの解明にも貢献している。生きたマウスの心蔵を透過させたX線により、心筋を構成するタンパク質レベルで心臓収縮の仕組み観察に成功したのもその一例だ。この種の基礎技術は、将来、循環器疾患の診断法開発にもつながると期待されている。また、ウサギの新生児の肺をX線屈折コントラストイメージング法によって撮影し、肺呼吸開始時に初吸入される空気が肺を満たす水を瞬間的に体内に押し込め、それによって外気呼吸メカニズムが始動することも確認された。

一方、有機材料科学とは、ポリマー(合成高分子)、プラスティック、液晶などのようなソフトマターと呼ばれる有機化合物材料の研究する分野である。これらの物質の構造を決定するには電子顕微鏡観察とX線回折・散乱法の2手法があり、そのうちの電子顕微鏡による物質表面の観察は近年著しく進歩した。しかし、顕微鏡観察は物質表面部の微小領域を調べるもので全体像の把握には向かない。物質内部の原子構造や高次分子構造、さらにはそれらの高速運動の様子などを把握するには、X線回折・散乱法が不可欠で、その点ではスプリング8の放射光X線は最強の手段となる。高分子結晶化のメカニズム解明に基づく鋼鉄よりも強力なプラスティックの開発、患部への薬物送達システムを可能にするナノ粒子の正体解明、有機半導体薄膜やポリマーフィルムの表面構造のナノレベルでの解明、結晶に似た構造ながら結晶とは異なる性質を持つ準結晶の発見などは、いずれもスプリング8における近年の業績にほかならない。

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