時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(23)(2014,03,15)

大正・昭和史、なかでも第二次世界大戦期を挟んだ20年間ほどの激動の時代の裏に秘められた石田達夫翁ならではの体験談は、何としても記録に留め置くべきものであった。そこで、私は、当時執筆を担当していたAICの連載コラム欄中に、「ある奇人の生涯」という特別なタイトルを設け、石田翁の生涯を描くことにしたのである。老翁にはその作品の大まかな構想を伝えるとともに、原稿用紙で200枚ほどの冒頭部の試稿を通読してもらい、一応の評価を得ることができた。だが、高齢だった石田翁はその連載が始まる前の01年8月に他界したため、残念ながら実際の連載記事を読んでもらうことはできなかった。

この作品の表現体は一応伝記小説の形式をとっているが、内容的にはノンフィクションそのものである。個人情報保護の重要性が叫ばれる現代ではあるが、リアリティを重視する必要上、登場人物はすべて実名表記にした。実際、そこに描かれている人々は皆実在していたし、一部の人は今もなお存命中である。話の後半には一世を風靡した数々の著名人がリアルな姿で登場し、次々に歴史的なドラマを繰り広げていくことになるから、分厚い本だが、読み進むなかでその内容に興醒めするようなことはないものと確信している。一連のドラマティックな出来事のなかでも圧巻と言うべきは、53年のエリザベス女王の戴冠式にまつわる様々な逸話や、戴冠式列席のために渡英された皇太子(現天皇)の英国滞在中の同行取材体験談などである。石田翁は、民間人としては戦後初めて渡英した人物で、当時のBBC放送日本語部局でアナウンサー兼放送記者として大活躍していたのだった。

現在、石田翁の孤高の魂は長野県松本市の蟻ヶ崎墓地にある信州大学医学部供養塔で永久の眠りについている。生涯を無宗教で通した老翁は、臨終に際して、葬儀はむろん、香典・供物の類をも一切拒絶するとともに、自らの遺体を信州大学医学部に献体するよう遺言したからである。当然、特別に自らの墓を建立したりすることも許さなかった。

(九州博多で始まったその人生)

大正5年に博多で生まれた石田達夫は、地元の小中学校を経て旧制福岡高校に学び、卒業後に上京する。そして破天荒な職業遍歴を重ねた末に横浜の山下公園で行き倒れになる。だが、偶然に当時の横浜職安の所長に助けられ、その紹介で日本と台湾・中国を結ぶ定期運航貨物船の船荷管理担当の船員となる。そしてドラマティックな船上生活を体験したあと、天命に誘われるままに天津港で離船し、遼東半島の青島に到る。青島では香具師の右腕になったりしながらそれなりの活躍をするが、日中戦争の拡大と激化に伴い、青島を立ち退き満州の大連に移ることを余儀なくされる。そして、その大連で天性の才覚を発揮した石田は、日米開戦前のシティバンク大連支店に就職し、そこで抜群の業績をあげて重用される。大連郊外の景勝地老虎灘に居を構えた彼は、当地在住の諸外国人とも親交を重ね、猛勉強の末に英語・フランス語・ドイツ語・ロシア語・中国語などを次々と修得していく。

その後、突然に生じた一身上の都合で上海に移住した石田は、フランス租界に住みながら、上海の日本海軍武官府などに勤務、さらには上海在住の外国人相手に英語で日本語を教える「石田ランゲージスクール」と開設して大成功を収める。一躍上海の名士となった石田は同地在留の著名人らとの交流を深めるが、欧米との開戦に伴って外国籍の受講者が対象のランゲージスクールは強制閉鎖の憂き目に遭う。やむなくして、イタリー大使館、ドイツ企業の上海支店などに勤務するが、イタリーやドイツ本国が敗色濃厚となるに連れて仕事がなくなり、遂には上海大世界の賭博場の裏方仕事まで体験することになる。そして終戦1年前くらいに現地召集によって徴兵され、武漢を経て最前線に送られかけるが、強運のゆえにそこで終戦を迎え、上海に戻る。上海にしばらく留まったあと、引き揚げ船に乗り、佐世保経由で生まれ故郷の博多に戻ったのだが、そこで彼を待っていたものは終戦直後の荒廃しきった本土の姿だった。作品全体の3分の1に相当するここまででも想像を絶する秘話・奇談の連続であり、戦前・戦時の日本や中国大陸の様子を詳細に窺い知ることができるのだが、実を言うとここまでの話はまだほんの序の口に過ぎない。

(奇遇がもとでBBCへの道が)

博多の窮状を目にした石田はすぐさま上京を決行するが、実際に目にした東京の惨状は想像を絶するものであった。だが、石田は上京当日の夜、満月の光の降り注ぐ皇居のお堀端の路上で奇跡そのものの運命的な出遇いをする。出遇った相手はBBC極東総支配人のジョン・モリスであった。石田の文化的な見識や語学能力、さらにはその人柄を高く評価したモリスは、彼をロンドンのBBC日本語放送部局のアナウンサー兼放送記者として迎え入れたいと考え、渡英するようにと促す。だが、当時の日本は連合国の占領下に置かれており、総司令官のマッカーサーがすぐには渡英許可を出さなかった。紆余曲折の末に渡英許可が出たのはそれから3年ほど経ってからのことで、49年春に石田はようやく念願の英国入りを果たし、晴れてBBC日本語放送部局に勤務するようになった。

終戦後間もない時期ゆえにまだ英国へ向かう旅客機は運航されていなかったので、渡英には英国航空所属のダグラス社製4発大型水上飛行艇が用いられた。東京湾を飛び立ち、途中の国々に立ち寄りながら2週間近くをかけて英国サウサンプトンに到るその空の旅は、まるでアラビアンナイトの世界を彷彿とさせるものだったという。それから程なく旅客機が日英間を結ぶようになったので、飛行艇で日本から英国まで旅した日本人は後にも先にも石田達夫だけだったようだ。民間の日本人としては戦後初の渡英者だったこともあって、英国での石田の生活ぶりやその動向は英国の新聞などでも度々報道されたりもした。

BBC日本語放送の定時番組のアナウンサーを担当するようになった石田の声は、短波に乗って遥々日本まで届けられることになった。彼はまた放送記者として英国のロイヤルファミリーをはじめとする英国内外の様々な著名人、さらには数々の庶民たちを直接取材し、それを契機にそれらの人々と親交を持つようにもなった。また、BBCの一員としてそんな活動を重ねることによって、世界にその名を馳せるBBCの高邁な放送理念を知ることになった。50年代初頭にロンドンに再設された日本大使館の松本俊一駐英大使夫妻にひとかたならぬ知遇を得た石田は、エリザベス女王の戴冠式出席のための渡英した皇太子(現天皇)を松本大使らとお迎えし、案内を兼ねた同行取材を通して、その人間的なお姿に直に接することになる。過日のNHK会長や一部運営委員らの発言とは対極をなすBBCの放送理念やその成立史、60年前の訪英時の人間味溢れる皇太子の姿などについての記述の概要は、次号以下において紹介させてもらうことにしたい。

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