時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(15)(2015,09,15)

(「異常」が正常で「正常」が異常な世界)
 当世マスコミを賑わしている「有識者」などには程遠い「非有識者」のこの身ゆえ、甚だ恥晒しな駄文を連ねるしかないのだが、内容そのものは重要なことには違いないので、義父の遺した凄絶な体験談の続きをそのまま記述させてもらおうと思う。
 処刑執行に際して、中国人捕虜たちは首を切り落とさずに刺殺してくれるようにと懇願したという。首を身体から切り離されると人間に生まれ変わることができないという信仰が当時の中国人の間にはあったかららしい。その一方で、中国人民衆は、そんな刑の決行時、現場に大勢集まってその凄惨な光景を遠巻きに眺めているのが常だったそうなのだ。
 陸軍士官学校を修了し新人士官として中国戦線に送られた者らは皆、上官によってまず数人の中国人捕虜の首を切り落とすよう命じられたものだという。古参兵などの部下を指揮して戦闘を展開するには、その程度のことはごく普通にできなければならないと考えられていたからだった。はじめて軍刀で五人の捕虜の首を切り落としたとき、義父は吐き気をもよおし一週間以上も食事をとれない状態だったらしい。しかし、やがてそういう行為に対する嫌悪感も罪悪感も麻痺していったと義父は正直に告白している。
 最も残虐だったのは衛生兵や軍医らで、情け容赦なく捕虜を殺害したという。天井から逆さ吊りにして拷問にかけ、そのまま捨て置いて街へ飲みにでかけたりすることなど日常茶飯事で、むろん、その間に捕虜は皆息絶えてしまっていた。衛生兵や軍医は常々重傷を負った兵士や無惨に息絶えた死体を見慣れているので、その分一層残忍な行為に及んだのだそうだ。平穏な世では医療に携わる人間は尊い生命を守る存在として崇められもするが、自らも敵と対峙する戦争という異常な状況下ではまるで逆の存在ともなりうるものなのだ。
 中国人捕虜や強制的に狩り立てた現地の民間人らを遠くへと連行して苛酷に使役し、労役が終わると次々に殺害して死体を遺棄したり埋めたりする行為は、日本の部隊が当時よくやっていたことだったらしい。ところが、そんな時など、いったい誰がどのようにしてその手筈を整えているのかは判らなかったが、必ずと言ってよいほど、翌日になると遺体は跡形もなく消え、何処へともなく運び去られていたという。
 もちろん、時には日本兵の捕虜が無残な姿で発見されることもあったようだ。口から尻まで太い針金を通して裸のまま宙に吊るされ、中華料理の豚の丸焼きを作るのとおなじ要領で焼き殺された戦友の姿を目の当たりにし、愕然としたこともあったそうだ。戦場の人間心理とは異常かつ身勝手なもので、そんな時には自軍の残虐行為など棚に上げ、悲憤と激しい敵愾心に駆られたものだという。
「戦争とはまさに狂気そのものなんだよ。自らの身も心もひたすら狂気に染め尽くし、残虐な行為を当然視しながら、凄惨な遺体の脇で平然と食事をとったりすることができるようにならなければ戦場の苛酷さに堪え続けることはできない。正常な判断力を意識的に擦り減らさないかぎり戦争の最中を生き抜いていくことなどできない。それは異常が正常で正常が異常となる世界なのだ」と、義父は言葉を噛み締めるように語っていた。
妻の話によると、生前の義父は、睡眠時、毎晩のようにひどくうなされていたそうだから、たぶん、そんな折など遠い日の深い心の傷が悪夢となって甦ってきていたのだろう。東アジアや東南アジア一帯で日本軍を率いた多数の将校や下士官たちは、その意味では皆同罪者であり、またその一方で義父と同様に深刻な心の傷病者でもあったに違いない。
「皆口を噤むしかない状況に置かれていたが、自分と同期やその前後の陸軍士官学校卒の軍人でそんな体験をしていない者など誰もいないだろう」とも断言した義父は、私に向かってさらに痛烈な一言を吐いた。
(人間の心には鬼が棲んでいる)
「平時には人一倍冷静沈着で優しく穏やかな者が……そう、虫一匹殺さないほど生命に深い畏敬の念を抱いている人間が、己の死に直面した極限状態の戦場では驚くほどに変わってしまうものなんだよ。むしろそんな人間のほうが驚くほど勇敢に戦い、しかも敵に対して冷徹に、そして時には残忍このうえなく振舞ったりするものなんだ。平時において偉そうな調子で勇ましいことを声高に叫んでいるような人間は、生きるか死ぬかの戦場ではほとんど役に立たない。真っ先に逃げ出すのはそんな連中なんだ。どんな人間の心にも鬼や悪魔は棲んでいる。本田君、常々穏やかで謙虚に見える、そして他人思いの君のような人間こそ、生死の狭間にある戦場に出たら一変してしまう可能性が高いんだよ……」
 その箴言にはかつての義父自身の姿が重ねられていたのであろう。むろん、その時の私に返す言葉などあろうはずもなかった。自分の心にも冷酷無比な鬼が棲んでいることは間違いなかった。その鬼を生涯眠らせたままにしておくことができれば幸いではあるし、また極力そうしたいものだとも思ったが、絶対に目覚めさせることがないと言い切れるだけの自信などまるでなかった。義父が述べ伝えようとしたところは、一時代前の名映画「人間の条件」のいくつかのシーンにもそのまま重なる感じでもあった。
 生前、義父は、自らに直属の部隊員を一人も失うことなく日本へ帰還できたのは幸いだったと語ったことがある。実際、義父の葬儀の際には全国から元部下だったという人々が焼香に駆けつけてくれたばかりか、義母や義弟、妻らに向かって中国戦線における苦労譚を語りながら義父に対する深い謝意を伝えていた。葬儀に参列してくれたある高齢のご婦人などは、「敗戦直後の満州からの引き揚げに際して、力ずくで我先に押しかける身勝手な者たちを厳しく制し、この私をはじめとする妊婦らを優先するように配慮して戴きました。あのご配慮がなければ帰国後に無事生まれた息子共々命を落としてしまっていたかもしれません。今も心から感謝しております」と話してくれたりもした。
 もちろん、葬儀の場のそんな話だけを取り上げればそれなりの美談で終わってしまうところだが、冷静に考えてみると、それは義父の見せたかつての姿の一面に過ぎなかったのだろう。苛酷な戦場において自らの部下全員を生存さ続けるには、戦闘相手を怜悧な戦略のもとで的確に殺戮していくしかない。兵站の破綻した極限状態の中で飢えを凌いで生き抜いたり、ソ連軍の迫る中、着の身着のままの姿で引き揚げる老若男女の一群を無事母国へと帰還させたりするためには、中国各地の民間集落などを襲い、食料や諸物資を容赦なく収奪しなければならなかったことだろう。言うまでもなく、それは、義父ら職業軍人の持つもう一面の真実にほかならなかった。死期を間近にした病床で、「バチが当たったんだ」という一言を静かに吐いて瞑目した義父の姿がすべてを物語っていたように思う。

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