時流遡航

《時流遡航317》 日々諸事遊考(77) (2024,01,01)

(新年に際し非力な己の文責を省みる)
先行き不明で不穏極まりない国際間の動向には困惑を覚えもするが、世の片隅でひそやかに暮らすこの身は、なんとか今年も穏やかな新年を迎えることができた。浅学非才で文才などにはまるで無縁な身であるにもかかわらず、こうしてささやかな文章を綴らせ続けて戴けたことは有り難いかぎりである。常々この拙文コラムをお読みくださっている読者の皆様には、この場を借りて心からお礼申し上げたい。昨今は「不良老年妄想族」とも自嘲しながら、細々と筆を執らせて戴いている次第でもあるが、たとえ妄想ではあるにしても、幾らかでも有意義な要素を秘め持つ想いにはなるように心掛けたいと考えている。
 ともかくも、そんなレベルの筆者が紡ぎ出す駄文ゆえに、昨今では高齢になった同年齢層の友人知人らの中には、「お前の書く文章は面倒な話が多すぎてもうついていけない。いったい誰が、今時、こんな文章を読んでくれると思っているんだい?」などという、辛辣極まりない言葉を浴びせかけてくる者もある。まあ、ある種の忠告にも似たそれらの人物の見解にも一理はあることゆえに、そんな折は「申し訳ない。非力な身のなせる業なので、無理に目を通したりせず、どうかそのまま捨て置いて欲しい」などと受け流すことにしている。ただ、さすがに、本欄においては極力漢字表現を抑制しひらがな文字を多用した、軽い口語調の文章のみを書き綴るわけにもいかない。その気になれば、ここでそれなりの戯文を書き連ねることもできないわけではないのだが、それは場違いというものだろう。諸々の世事について少しでも深い考察、いや幾らかでも意味ある「妄想」を述べ連ねようとすれば、特定の概念などを表す類の専門的用語などは、それ相応に用いていかざるを得ない。
 もっとも、そんな揶揄の一方で、励ましの言葉を送ってくれる友人知人や教え子らもそれなりには存在している。たとえ彼らの言葉の裏にそれなりの外交辞令的側面が秘められていたとしても、それを素直に激励の言葉と受け止め、執筆活動持続のためのエネルギーへと変えてみるのも悪くはない。愚かと言われればそれまでだが、この身レベルの筆者ではあっても、表現者というものはもともと虚々実々の世界を生き抜く宿命を背負っている。それゆえ、そのくらいの逞しさや開き直りの精神はあらかじめ持ち具えておかなければならないだろう。それは落語家や漫才師、さらには道化役者らの演技を支える資質にも通じるもので、周囲から批判されたり嘲笑されたりするのはむろんのこと、自己批判や自己嘲笑をも必然のものとして受け入れるだけの心構えとでも言い表したほうがよいのかもしれない。
 近年は筆者もまた、前述した「不良老年妄想族」という呼称に重ねて、「百円使い捨てライター」とも自称するようになってきている。むろん、着火用ライターと物書きを意味するライターとを掛け合わせてのことにほかならない。もともと一流ライターには程遠い身であったがゆえに二流ライターを目指しはしたのだが、現実にはそれさえも難しく、結局のところは売れない三流ライターの身に甘んじるしかなくなった。ただ、そんな不束なライターであるにもかかわらず、長年にわたり拙い筆を執らせてくださっている本誌編集部に対しては、あらためて衷心より深謝申し上げる次第である。ボロボロ、ヨレヨレの不良ライターを温かく処遇してくださっているわけなのだから……。
(三流ライターとしての自負は)
 そんな非才極まりない身ではあることはさておき、三流ライターには三流ライターなりの社会的役割があることもまた事実である。幸いと言うべきなのかどうかはともかく、多忙極まりない売れ筋の一流ライターの方々とは違って、三流ライターにはじっくりと物事を考えるだけの時間はある。それゆえ、その気になれば、一般受けしないことを承知しながらも、少々面倒な内容の文章などを綴ったりすることができるのだ。さらにまた、批判、嘲笑、蔑視などが生じることを覚悟のうえで、諸々の社会的状況について辛辣な見解を発することも可能である。たとえその内容が如何に優れたものではあっても、もともと絶対解など存在しない論考や論評などには厳しい批判はつきものであり、裏を返せば、何かしらの批判があること自体がその論考や論評にそれなりの意義があることの証ともなる。何の波風も立たないということは、そこで述べられている内容がどうでもよいものだとして無視されていることにほかならない。逆にまた、批判などは皆無で、称賛一辺倒の論考や論評類があったとすれば、その背後には誰しもが表向きそうせざるを得ないような隠れた力が働いていることを疑うべきだろう。それは専制国家などで折々見られる光景でもある。
 ともかくもそんなわけだから、三流ライターに過ぎない愚身もまた、自らが背負うべきささやかな使命のひとつとして、いささか面倒を要する類の日本語表現に拘ることにしている。芭蕉の唱えた「不易流行」の概念を引き合いに出すまでもなく、この世の全ては常に移り変わるものであり、とどまることなきその推移の流れこそが永遠不変の世の本質なのだから、日々言葉が変化し続けるのは必然のことだろう。しかし、新聞雑誌や諸々の書籍などの読者が著しく減少し、各種SNSに見るような短文表現が日常化する昨今にあっては、日本文化を根底で支える論述体の日本語そのものの衰退が危惧されてならない。果てしない変遷を辿り続けるのが言語というものの宿命ではあるにしても、その時代なりの言語文化の維持に関心をもつことは、三流ライターにとってのせめてもの生甲斐だとも言える。「不易流行」という言葉の生みの親たる芭蕉の紀行「奥の細道」が世に名高いのも、元禄時代の言語文化を後世に伝え残そうとする真摯な一面があったからにほかならない。
国際的交流の必要上、初等期からの英語教育の重要性が叫ばれるようになって久しいが、母語である日本語をしっかり身に付けることなしには、英語で日本文化を的確に紹介したり、学術レベルの高度な英文を読みこなしたりすることは難しい。もちろん、今後日本が英語を母語とすることを目指すというなら話は別だが、そのためには日本人は英語民族へと一大転換を図らなければならない。生成AIをはじめとする高度な翻訳システムも次々に登場している昨今ゆえ、今更そこまでの一大転換を望むような人はいないだろう。なかには、どうせChatGPTなどが全てを代行してくれるようになるだろうから、最早難しい表現の日本語など学ぶ必要はないと考える人もありはするだろう。
だが、それは間違っている。たとえば、AIは自ら新しい言葉や概念を創造したり定義したりすることはできないし、自らの意志で旅をして感慨深い紀行文をリアルタイムで執筆したりすることもできはしないのだ。いまなお人間固有の言語表現能力が不可欠な領域は少なくない。たとえ「蟷螂(とうろう)の斧」と揶揄されようが、また、戯言も甚だしい限りだと非難嘲笑されようが、三流ライターの身を逆手に取って陰ながら日本語表現維持に尽力したいとは思う。

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