時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その概観考察(5)(2018,03,01)

(「思考の諸様態」の新訳に挑んでみた理由)
 哲学の専門家でもない私が、既に翻訳書が刊行されている「Modes of Thought(思考の諸様態)」の全訳に改めて取り組もうとしたのには、幾つかの理由がありました。
 ひとつには、同書の第一講部だけを私的に試訳し、それを収録してもらった書籍「表象の転移」(白馬書房)の共著者らや、その訳文を読んだ知人や教え子たちから、あとに続く部分も訳してほしいという要請があったからでした。また、若い時代に自らもその深い思想に多大な啓示を受け、いまも敬意を払い続けている著名な数理哲学者ホワイトヘッドの重要な著作の翻訳書が、あまりにも難解すぎて一般人にはとても読みこなすことができそうにない状況が残念に思われてならなかったからでした。
一旦は、哲学者などではないこの身には分不相応な行為かと思いもしました。ただ、そこで、数理科学的視点や論理学的視座に立って真摯に原文を読み込み、十分に時間をかけて翻訳に取り組めば、完璧な出来栄えは望むべくもないにしても、それなりには原著の要旨を伝え得る翻訳は可能ではないかと考え直してみたのです。さらにまた、「Modes of Thought」は、「過程と実在」などをはじめとするホワイトヘッドの他の主要著書などとは違って、分量的にみてもほどよい作品なので、身の程知らずのこの身にも何とか手に負えそうだという判断もはたらいたのでした。
 生活のために必要な本来の仕事にあれこれ対応しながら、その合間において地道な副次的作業を続けたわけですから、当然、それなりの時間を要しました。しかも、たとえ全訳が完了したとしても、それを何処かの出版社から刊行してもらう当てなど全くない状況下での作業でもあったのです。著作権などの問題もありますから、既に刊行されている「思考の諸様態」があるかぎり、たとえ独占翻訳版権が設定されていなかったとしても、他の出版社が安易に新訳本の出版に手を出すはずもありません。そもそも、この種の学術書の翻訳版の売れ行きなど高が知れていますから、リスクを抱えてまでそんな著作の刊行に関心を示す出版社などはまずもいって存在していなかったのです。
金銭的には何の見返りも求めない自主作業でしたが、ホワイトヘッドが熟考に熟考を重ねたうえで述べ記した一語一語を慎重に咀嚼しながらの翻訳でしたので、その過程を通して学び得た知見は決して少なくありませんでした。また、その著作中では、古代から近代に至るまでの著名な哲学者、科学者らによる多様な理念や主義主張の考察などもなされていたので、西洋の学術思想史の概要を改めて展望し直すこともできました。
 80年代半ば頃には一応原著の全文を訳し終えたのですが、その分量は手書きの400字詰め原稿用紙で450枚ほどにのぼりました。ごく内輪の人々のみにそれを見せたあとすぐに、私は押し入れの奥深くにその原稿を仕舞い込み、それはそこで30年間ほどの長きにわたり深い眠りに就くことになったのです。自分にすればそれなりの労作ではあったのですが、刊行の目途が立っているわけでもなく、また、生来の無精者ゆえに敢えて出版先を探す気にもなりませんでしたので、結局、そのまま原稿を放置しておいたのでした。そして、正直に言うと、自分でもそんな原稿の存在さえも忘れ去ってしまっていたのです。 
(ボロボロになっていた元原稿)
ところが、何年か前のこと、たまたまある教え子からその翻訳原稿は今どうなっているかと問われたことに加え、折からの転居作業が重なりもしたために、押し入れの奥底に眠るそれと思しきダンボール箱を引き出してみることになりました。すると、その中から現れたのは、全体がすっかり茶色に変色してしまった問題の原稿だったのです。思っていた以上にその傷みは酷く、全体の3分の1ほどに当たる最後の150枚ほどの原稿は雨漏りの影響もあってボロボロに朽ち果てたり、文字が読み取れなくなっていたり、鼠に齧り取られていたりして、見るも無惨な状態になっていたのでした。
 やむなくして、原型を留めなくなってしまった部分の原稿を今一度一語一語手書きで執筆し直すことにしました。今時手書きでなどと言うと、意外に思われる方も少なくないでしょうが、翻訳原稿の全てを手書きにして仕上げたのにはそれなりの理由があったのです。80年代初等の頃のパソコンはモニターと本体が二つに分かれており、しかも重くて嵩張(かさば)っていましたから、現代のノートパソコンみたいに手軽にそれを持ち運び、外で仕事をするなど不可能でしたし、日本語処理機能自体もまだまだ不完全なものでした。そしてまた、たとえその時代のパソコンの性能が現在の機器並みのものだったとしても、私はやはり手書きで原稿を書き進めたことでしょう。国内ではパソコンがまだほとんど普及していなかった時代から縁あって先駆的にコンピュータに接してきた人間ですから、けっして機械音痴であったわけではありません。
ホワイトヘッドの著作に見るような重厚かつ深遠な文体を、正確でしかもなるべく自然な流れとリズム感とを備え持つ縦書きの日本語文に置き換えるには、一語一語慎重に吟味を重ね、試行錯誤を重ねつつ手書き文字で加筆修正を繰り返し、ひたすら丁寧に対応していくしかなかったからなのです。目下執筆中のこの連載記事の原稿を含めて、通常、仕事上の文章は直接パソコンを用いて作成するのですが、一文ごとに全体的な流れを検討しながら対応せざるを得ないその著作の翻訳に限ってはどうしてもそうすることができませんでした。
 昨年ようやく全体の翻訳を再仕上げしたあと、はじめて全文をパソコン入力してデジタルデータ化し、それをまた縦書きにして用紙に打ち出したうえで細かな校正を行い、ようやく一応の完成をみたようなわけなのです。ただ、そのデータは今もまだ手元に留め置いたたままで、目下のところ書籍化の予定は立っておりません。昨年でホワイトヘッドの没後70年が経過しましたので著作権のほうももう消滅しているはずです。それゆえ、そろそろ「思考の諸様態」の新訳書が刊行されてもよいのではないかと思いますが、そこは見識ある出版社の登場を待つしかありません。ただ、私個人としましては、曲がりなりにも後世に同著の翻訳データを残すことができ、またそれに必要性を感じたり関心を抱いたりする方があれば、何時でもデータを提供することが可能になりましたので、そのことだけでも苦労の甲斐があったと考えているような次第です。
 西洋哲学の翻訳書の持つ問題点について長々と述べてきましたが、この辺でそろそろ本格的な哲学の脇道散策に向かいたいと思います。文字通りの遊行、すなわち遊び半分の気ままな旅路にはなりますが、それでも哲学の世界の輪郭を垣間見てもらうことくらいはできるのではと、己の無知を棚に上げつつ、内心想いを馳せ廻らせているところです。

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