(真の理性や知性が失われつつある国状を憂える)
昨今の我が国では真の意味での理性や知性というものが随分と軽視されているように思われてなりません。理性や知性の問題を引き合いに出そうとするとすぐに、そんなものはお高い一部の知識人の世界の話で、大多数の庶民には一切無関係な代物だという声が上がったりしがちです。一見したところ教育熱心で、自らの子息や子女が受験勉強に励む姿に目を細めている親たちでさえもそうなのですから、事態は想像以上に深刻なのです。菅首相が日本学術会議会員の任命を拒否し現学術会議の意義そのものをも批判し始めたのも、当世のそんな風潮を見透かし、それに便乗しようとしたからなのでしょう。しかしながら、我われ国民はこの際しばし踏み止まり、敢えて慎重な対応をとらなければなりません。
端的に述べさせてもらうならば、本質的な意味での理性や知性は、一国の命運ばかりでなく人類社会全体をも左右するほどに重要なものであり、人間の誰しもが大なり小なり具えもつべき素養なのです。けっして、それらは、特別な人々のみが恣意的に弄ぶ、実生活には無縁な概念などではありません。そもそも、理性や知性をしっかり身につけているかどうかの判断は、単なる学歴の積み重ねや社会的地位の高低などとはおよそ無関係なことなのです。
もし学歴や社会的地位がそれらの獲得にとって不可欠なのならば、総理大臣をはじめとする現政権下の閣僚や官僚諸氏などは、皆それなりに理性的かつ知性的存在であるはずだからです。ただ、残念なことには、彼らの姿はどう見てもそんな風には映りません。
自然界の諸事象や人間社会の様相は、絶え間なく複雑多様な変遷推移を遂げていきます。そして、そんな自然界や人間社会の一連の動向を極力冷静沈着な視点に立って考察する際、唯一の頼りとなるものこそが理性や知性にほかなりません。それゆえに、本来、それらは、その人の育ちや職業などには一切関係なく培われるべきものなのです。そうしてみると、しっかりした理性や知性を具え持つ人物は、片田舎にあって日々自給自足に近い質素な生活を送っている人々のなかにも少なからず存在していて当然なのです。
むしろ、喧噪な大都会などにあって、文明の最先端に立つことを誇り、その発展に寄与しながら生きていると自負しているような人々のほうが、実のところは膨大な情報群に振り回されているのみで、本質的な知性や理性を失ってしまっている可能性が高くさえあるでしょう。
メディアなどでその実情が真摯に論じられることはまずないのですが、国際的な観点に立って冷静に考察してみると、我が国の世界における存在感は急速に低下してきています。なかでも学術研究領域における凋落ぶりは目に余るものがあり、このままの状況が続くと、近い将来この日本は二流三流の国へと転落してしまうことでしょう。従来は、少なくともアジア地域では科学研究や高等教育において最先端を歩んでいると自負してきた日本人ですが、そのような見方は最早幻想になりかけてきています。そんな事態を何よりもよく象徴しているのが、数だけは異常に多い国内の諸大学での研究や教育レベルの驚くほどの劣化であると言えるしょう。そして、そのような事態が起こりつつある最大の原因は、国民全体の本質的な理性や知性の退化にあると考えるべきなのです。直接的には行政者の責任ですが、学術行政を全面的に彼らに委託したのは、ほかならぬ我われ国民自身なのですから。
(非理性的な学術行政の実態)
菅首相は日本学術会議会員の所属先が偏っていると批判していますが、理性的思考のかけらさえも感じられないその認識の浅さには唖然とするばかりです。高度な専門的学術研究の実績評価というものは、同じ分野の研究者にとってさえも困難な場合が殆どですから、一般人にとってその直接的評価が不可能なのは当然のことでしょう。先端学術研究の業績の類は、それを職人の世界に喩えるなら、ある特定の天才職人にしか実践できない、神技ともいうべき特殊技能やそれによる産品にも相当しています。そんな天才職人の業績評価というものは、その職域に精通する限られた人々にしか行うことができません。それと同様に、多岐多様に分化する特定学術分野の研究者の業績評価は、その領域に通じる一部の専門家に依存するしかありません。それゆえに、一定の学術業績評価に基づき推薦される日本学術会議のメンバーが、ある程度まで特定の大学や年齢層に偏るのは当然のことなのです。しかも現在の国内専門研究者の殆どは、先進諸国のそれに比べて恵まれているとは言い難い条件下で日々懸命に研鑽を積んでおり、自らの地位を誇ったりしてなどいないのです。
国内には他国に較べて明らかに過剰な800校にも近い大学が存在していますが、そこに見る教育や研究レベルの相違は目に余るばかりです。また、民間にも優れた業績をもつ人材がいるのは事実ですが、実用的な応用技術開発が主体の民間研究所と、基礎学術研究を主体とした諸大学や国公立研究所の研究機関との間で、学術上の評価に一定の偏りが生じるのはやむを得ないことでしょう。さらにまた、学術分野の性質にも左右されはしますが、これから実績を積もうとする若年層研究者と既に一定の業績を獲得した中高年層研究者との間において、学術会議会員数が後者に大きく偏りがちなのは、ほかならぬ政治の世界と同様です。
そのような背景を一考もせず、政権に批判的な学者を排除する傍ら単純な均等概念などを持ち出し、日本学術会議の構成に偏りがあると指弾するのが「総合的・俯瞰的な判断」に基づく施策であるならば、今後の日本の学術的な発展は絶望的だと言えるでしょう。
国立大学の法人化以降大学運営費を大幅に削減し、その一方で「選択と集中」のお題目のもと、「役に立つ研究」に学術資金を集中投資する政策は表面的にはもっともらしく見えたりもします。しかし、「役に立つ」という概念は過去と現在の価値観に立脚した判断基準なのであり、その根底には「既存の諸条件や社会的諸状況が今後もそのまま続くならば」という大前提が隠されています。基礎学術研究の真髄である「そんな現象はなぜ起こるのか」、「いったいそこに何が存在しているのか」、「こうしてみたらどんな事態が生じるのか」、「それは何処にあるのか」などといったような、予測不能な未知の事象の探究を評価する姿勢はそこにはまるでありません。敢えて言えば、その時点では「役に立たない」ことを研究するのが真の意味での基礎学術研究であり、ノーベル賞級の業績の殆どはそのような研究姿勢を通して生み出されたものなのです。後々それらの研究が人類の進歩に多大な貢献をするようなことも少なくありませんが、それはあくまで結果論ではあるのです。
むろん、応用科学の諸分野のように社会に直接役に立つ研究も重要ではありますが、その種の研究のみに資金を投入する国はいずれ学術研究の後進国へと退行していかざるを得ません。当面役に立つ研究しか視野に入れることのできない政治家の跋扈するこの国の学術水準は凋落し、やがては役に立つ研究さえも不可能な状態に陥ってしまうことでしょう。