時流遡航

《時流遡航》電脳社会回想録~その光と翳(1)(2013.03,15)

現代人の社会生活は最早IT技術抜きでは成り立たないところまできてしまったが、その分サイバー犯罪の数も加速度的に増大し、さまざまな社会問題が続発している。この身はもう老いさらばえ頭脳のほうもすっかり衰えてしまったので、今更最先端のIT界の現況や複雑至極な昨今のインターネット社会の内情について偉そうに語ることなどできるはずもない。だが、これまでの人生航路の成り行き上、国内におけるIT社会の発展過程を身近に体感する立場にはあった。それゆえ、黎明期以来の電脳社会の歴史やその本質、さらにはそれらに纏わる諸々の功罪については、一通り述べ伝えることができるのではないかと思う。微力な身ゆえおのずから筆致の深さには限界もあろうが、なるべく平易な表現と柔軟な視点をもって、一連のIT問題の核心に迫るように努めてはみたい。

(老い果てた旧IT人間の哀愁)

筆者自身のITワールドとの関りはそれなりに長かった。一昔前に就いていた職業柄もあって、コンピュータを使い始めたのも、ワープロで文章を書き始めたのも、数理科学研究や科学教育の発展促進を願ってプログラム言語や各種ソフトウエアの開発に関ったのも、さらにはインターネットの前身であるパソコン通信に参画したのも、国内では極めて早いほうだったと思う。ただ、そうは言っても、時代の変遷と老化には勝てず、長いコンピュータ歴を持っていたにも拘らず、最近では、世の人々に数歩、いやおそらくは五十歩も百歩も遅れてIT技術やその関連情報の恩恵に与る有り様になってしまった。加齢を重ねるとともに最新の技術情報に対する関心が薄まってきたのは事実のようで、温故知新という言葉を借用するなら、「知新」の部分に少々翳りが生じてきたということになろう。旧IT人間の哀愁とでも言ったところだろうか。

いまから思えばオモチャのような8ビットマシンのアップル・コンピュータ、さらにはそれに続くNECや富士通の16ビットマシン隆盛の時代、当時はゲーム先進国だったアメリカで「トランシルヴァニア」とか「ロビンフッド」とか「デッドライン」とかいったアドベンチャーゲームの新作が発売されると、「MICRO」という月刊コンピュータ誌を刊行する新紀元社の編集部からすぐにそのゲームディスクが送り届けられたものだった。ドラキュラ伯爵をはじめ、諸々の有名キャラクターの登場するそれらのゲームに魅了されていた私は、研究者としての本来の仕事そっちのけで毎晩それら新作ゲームにチャレンジし、その奮闘記や攻略記をMICRO誌に掲載したりもしていたものだ。もちろん、裏ワザを使ってそのソフトのプログラムのアルゴリズムを解読したりすることもあった。

同誌ではまた、コンピュータ教育関係の専門記事を執筆したり、その頃にアメリカで評判になり始めたばかりのIBM研究員B・マンデルブローの「フラクタル理論」についての解説記事などを連載したりもしていた。フラクタル理論はのちにカオス理論、さらには複雑系の理論へと発展し、非線形問題(生命現象や気象現象などのように関連する要素が複雑かつ多様に交錯していて、特定の数式などでは容易に記述したり処理したりできないような問題)の記述や処理などに欠かせないものとなっていったのだが、その頃の日本においてはまだ、コンピュータ・グラフィックスの斬新な手法を供する便宜的理論として注目され始めた程度にすぎなかった。いまから30年ほど前の1984年に執筆し、MICRO誌4月号の巻頭を飾ったフラクタル理論のカラー図版入り解説記事、「フラクタル序説」は幸いなことに好評を博し、コンピュータ科学の世界を目指していた当時の若者らに、その後の飛躍に繋がる諸々の示唆や関心を与えることができた。

(プログラミング言語の研究も)

3次元LOGOという特殊な教育用言語を用いて様々なシミュレーションプログラムを開発、それに関する論文や解説記事を各種雑誌で頻繁に執筆したのも、NHKラジオのコンピュータ教育番組に出演したのもこの頃だ。アメリカの大学で用いられていたPASCAL(パスカル)という数理科学研究用言語とLISP(リスプ)という人工知能研究用言語をベースに、MIT(マサチューセッツ工科大)で開発されたLOGOという特殊な教育用プログラミング言語は、日本の学校教育現場ではその真価が十分には理解されないまま忘れ去られてしまったが、いま振り返ってみても極めて優れたコンピュータ教育用言語だったと思う。学生らに数学や物理の原理思考をさせたり、人工知能の基本を教えたり、高度なコンピュータ・プログラミングの根幹をなすリカージョン(再帰)という、当時としては高度で難解な新概念を基本から学ばせたりするには最適であったからである。

ベーシックと呼ばれる旧式プログラム言語が主流であったその時代は、LISPのような人工知能用言語の中枢を成す「エンベッド・リカージョン(埋め込み型再帰)」などのような斬新かつ特殊なアルゴリズム(演算処理工程)を理解しているコンピュータ技術者は極少数だった。エンベッド・リカージョンとは、あるプログラム(アルゴリズム)中にそのプログラム自身と同構造ないしは類似構造のプログラムが何重にも何階層にもわたって入り込む複雑なメカニズムのことで、当時「高級言語」とも呼ばれたLISPやその発展形である各種最先端プログラミング言語構築には不可欠な存在だった。プロフラムAがプログラムBの中に含まれ、プログラムBはプログラムCの中に含まれ、さらにプログラムCはプログラムAに含まれるという三つ巴の奇妙な構造、そしてまたそれらをより複雑に階層構造化したものなどもこのエンベッド・リカージョン技術の応用事例の一つである。

MITの数学者エーベルソンなどは「Turtle Geometry( タートル幾何学)」という本を著し、トポロジー(位相幾何学)や相対性理論といった高度な理論の原理学習にまでこのLOGO言語が活用可能であることを示しもした。シーモア・パパートやマービン・ミンスキーといったMITメディアラボラトリーの創設者らによって開発されたこの言語の奥深さに感銘した私は、数理科学の原理学習に関す様々な演算プログラミング研究をおこない、そのうちの初等・中等領域技術の一端を1986年当時の科学朝日に連載してもいた。

些か話が逸れるのだが、その頃、連載記事内容の細かな打ち合わせと原稿受け取りを兼ねて拙宅まで足を運んでもらっていた優秀な科学朝日の若手編集記者が、辻篤子さんと高橋真理子さんのお二人であった。辻篤子さんは大阪本社の科学部次長、pasо編集長、アメリカ総局勤務を経ていまでは朝日新聞論説委員の要職にある。いっぽうの高橋真理子さんは科学朝日副編集長、大阪本社科学部次長、東京本社医療科学部長、論説委員など歴任し、現在は朝日新聞編集委員を務めている。

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