時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(2)(2016,11,15)

(国内津々浦々を巡る旅を思い立って)
 人生のある時期を迎えた頃、私は思い切ってひとつの決断を下した。所属していた大学での専門研究の仕事を離れ、一介のフリーランスライターへと転身することにしたのである。それまで私が専攻していたのはトポロジー(位相幾何学)や基礎論理学だったが、極めて抽象度の高いそれらの専門研究において曲りなりにも先駆的な仕事ができるのは精々40歳までなのだった。
各種実験科学や応用科学、医学、社会科学などでは長年積み重ねられた経験自体が重要だから40代以降こそが真の能力の発揮のしどころとなる。だが、現実世界を超越して突き進む純粋数学研究の分野ではそうはいかない。微力なこの身にはおよそ無縁な代物だが、数学界のノーベル賞と言われるフィールズ賞の受賞者の年齢制限が40歳以下になっているのもそのような背景があってのことである。若い頃から翻訳作業などをも含めて文章執筆に関心があったのも転身の要因のひとつではあったが、自らが専門とする世界での老化に伴う能力の限界を冷静に見据えたからとういのがその最大の理由であった。
ともかくも、そんな転身を契機として私はあちこちをよく旅をするようになった。それまでは海外に足を運ぶことも少なくなかったのだが、フリーランスになってからの旅の足跡はもっぱら国内各地に向けられることになった。自ら選んだ貧乏ライター稼業のゆえに多額な出費を要する海外旅行などが縁遠くなったこともあったが、それにはいまひとつ大きな理由があった。自分は日本人なのに、実のところ日本の多様な自然や文化風俗といったものをよくは知らないという反省が胸中に沸々(ふつふつ)と湧き上がってきたからなのである。
 幼少期から中学時代までを過ごした鹿児島県の甑島(こしきじま)や高校時代を送った鹿児島市周辺、さらには大学時代以降の生活の場となった東京一帯についての自然や文化風俗についてならそれなりに通じている。京都、奈良をはじめとする国内の主な観光名所なども表面的な意味でなら一通りは見聞している。また、日本百名山のうちの30座くらいには登ったこともある。だが、北海道から沖縄諸島に至るまでの日本全土にわたる諸々の文化や風俗について自分はいったいどれだけのことを知っているだろうかと考えてみたとき、なんとも軽薄な知識しか持ち合わせていないことに気がついたようなわけなのだった。
 ささやかながらも日本語を用いて紀行体や随想体の文章を綴り、折々下手な詩歌などをも詠じてみようというこの身ゆえ、たとえ不十分なままで終わるにしても、日本各地の多様な民俗文化や自然の織り成す景観に触れずにいることは許されなどしない。日本語による文章表現の基本的な対象が日本の自然・文化・風俗・文物などであることを思うと、たとえ遅れ馳せではあったとしても、国内の隅々までを自らの心と身体をもってできるかぎり訪ね巡るようにすべきだろう。せめて伊能忠敬の爪の垢くらいは煎じて飲むようにしたい。まあ、すべては、そんな柄にもない気分に誘(いざな)われてのことであった。
 あらためて日本各地を旅するに当たって、私はトヨタの四輪駆動ライトエースをフル活用することにした。その中にコンパクトな炊事用具や簡易登山具、釣り具、寝具などを一式積み込み、連日車内で寝泊りすることにしたのである。購入費や維持費が嵩(かさ)むばかりでなく、険しい山道や細くて荒廃した未舗装の脇道・裏道などを走るには不向きな本格的キャンピングカーの類は初めから敬遠した。また、旅先の車中で長時間にわたって原稿を書き続けることができるような工夫もこらした。家族を養う必要もあったことゆえ、どこにいても仕事だけはしなければならなかったからである。たとえユースホステルや民宿などのような安い施設であっても連日宿泊し続けたら相当額のお金がかかるので、ライトエースを駆使してのそんな貧乏旅行に身を委ねる道を選んだのは必然の成り行きでもあった。幸い、当時はまだ、旅先での不慮の事態や諸々の困難な状況に耐えるだけの体力と気力だけは十分にあったから、とくに不安を覚えるようなことはなかった。
(気ままな旅の方針と目標とは)
 自分なりの「こころの旅路」辿るに際して、私は幾つかの方針と目標を定めることにした。まず始めに立てた方針は、期限のある特別な取材旅行の場合を除いては、日常生活において無意識のうちに拘束されている「24時間の概念」を一切放棄してしまおうというものだった。昼夜がまるで逆転した生活になろうが、昼下がりくらいに起床し就寝するのが丑三つ時くらいになってしまおうが、その時々の自然の成り行きに任せようというわけだった。起きたいときに起き寝たいときに寝るほうが、通常目にしたり感じたりすることができないものに触れることができるはずだと考えたからである。
 次に立てた方針は、とくに目的地を定めずに行けるところまで行き、たとえそれが無名の集落や観光スポットとは無縁の場所であったとしても、気が向いたところに逗留し、その周辺を探索しようというものだった。また、それに付随して、なるべくなら同じ道は通らないように努めることにした。そのほうが思わぬ発見や出合いに恵まれる可能性が高いと考えたからである。何もないはずのところに何かを発見することこそ旅の本懐(ほんかい)だというわけでもあった。
 いまひとつ立てた方針は、意外に思われるかもしれないが、なるべく写真撮影は行わないようにしようというものだった。プロのカメラマンではない私などが写真撮影に拘ると真に大切なものを見落としてしまう可能性のほうが大きい。自らの目で諸々の風物の具え持つ光と翳(かげ)とをじっくりと観察し、それらが刻々と演じ織り成す感動的なドラマに心を傾けるようにしたほうが文章の表現にはずっと役に立つ。旅先で詳細なメモもとるしスケッチも行いはするが、余程の必要がないかぎり写真は撮らないようにしようと心に決めた。
 また、他方の目標のほうに関してはふたつのものを掲げることにした。まずひとつは、自分の車で沖縄を含む全都道府県を走破すること、また、国内の主な島々には何らかのかたちで自らの足跡を刻むようにすることであった。そうしなければ日本の全容など見えてくるはずもないから、それは当然至極のこともでもあった。
 いま一つの目標は、日本本土、すなわち、九州、四国、本州、北海道の全ての海岸線沿いの道を踏破することであった。もちろん、北海道の知床岬などのように車では行けないようなところへは徒歩によって足跡を刻むことにしようと考えた。このふたつ目の目標を達成するには相当な時間がかかることが予想されたし、複雑に地形の入り組んだ九州の長崎県や佐賀県一帯などの海岸線を完全征破するのは容易なことではなさそうだった。だが、身の程知らずのこの身は敢えてその愚行に挑んだのだった。そして、その結果、日本という国の広さと文化風俗の奥行きの深さを痛感させられることになったのだ。

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