時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――脇道探索開始(8)(2018,04,15)

(証明の過程や明証性の概念には前提が不可欠)
既に述べましたように、「何かエビデンスはあるのか?」などと問いかける場合の「エビデンス」という言葉は、ごく普通の日本語になおすと、「証拠」、「根拠」、あるいは「明証性(明らかさ)」などというようなことを意味しています。ただ、昨今の医学・薬学業界などにおいては、その言葉は「科学的根拠」とか「科学的明証性」というように、「科学的」という特別な形容表現をつけた語義解釈がなされるのが普通のようです。見方によっては、通常用いられている「根拠」や「明証性」という言葉だけだといまひとつ信頼をおくことができないかのような対応の仕方なのですが、そもそも、「科学的」という形容語句のもつ言語機能はそれほどまでに信頼性の向上に寄与するものなのでしょうか。
最近はまた、何かしら新たな提案や指摘がなされたりするときに、「数値的にもそれは立証されているのか?」などと問い質されることがよくありますが、この「数値的に」という言葉もまた「科学的」という強調語と同類の機能を期待されているものだと見做しても差し支えないでしょう。そうしてみますと、「数値的に証明される」――より正確な表現を用いますと、「統計学的、確率論的、あるいは数学的に証明される」という概念のもつ意味やその信頼性についても、いま一歩踏み込んだ考察をしてみる必要があるのかもしれません。ただ、それは、「エビデンス」という言葉そのもののもつ信頼性を「エビデンス」してみる、すなわち、「科学的根拠を信頼することの根拠をさらに科学的に考察してみる」という二重の思考過程の検証に挑むことになるわけですから、話はけっして容易ではありません。ともかくも、「エビデンス」という用語の意味やそれが秘め持つ複雑怪奇な背景を一考さえもしてみることなく、何となく分かった気分にさせられた挙句に、したり顔でその言葉を多用したり受け売りしたりするようなことだけは慎まなければならいでしょう。
昔医薬業界誌の若手記者だったというある方から耳にしたところによりますと、エビデンスという言葉が国内の業界や関係省庁内で流行し始めたのは、小泉信一郎元首相がまだ厚生大臣を務めていた頃だったのだそうです。そのことを知った小泉氏は、高齢者や身体障害者関連の行政をも所轄する厚生省の職員がそんな横文字などを使ってどうするのかと叱り、エビデンスという記述を日本語表記になおさせていたとのことでした。そのような一面が小泉氏にあったというのは些か意外なことなのですが、同氏によるその折の対応ぶりだけは素直に評価してよいのかもしれません。やはりその当時のことですが、公開の審議会などにおいてもエビデンスという英語に相当する適切な日本語は何かという議論がなされもしていたそうです。ただ、結局は元に戻ってしまい、今ではまたエビデンスという英語がそのまま用いられることになってしまったようなのですけれども……。
(定義というもののもつ重要性)
 ところで、英語の「エビデンス」という言葉にしても日本語の「根拠」という言葉にしても、それらが暗黙うちに前提としているのは、「証明」という思考過程や、それに伴う「明証性(明らかさ)」の概念にほかなりません。私が「エビデンス」という言葉を足掛かりにしながら哲学の脇道に一歩踏み込んでみようとしたのは、そうすることによって、「証明」とか「明証性」とかいった概念の本質を必然的に考察していかざるを得なくなくだろうと思ったからでもあるのです。私たちは「そのことが証明された」とか、「そのことには明証性(明らかさ)がある」とか言われると、そうなのかとすぐ納得してしまいがちなものです。しかし、証明やその結果として得られる明証性というものは、それほどまでに確実で絶対的な信頼を託せられるような概念なのでしょうか。
 そこで、まずはごく単純な問題から話を進めていくことにしましょう。「テーブルの上にリンゴが1個あることを証明しなさい」と問われたとします。そのような場合、通常、私たちはそのテーブルの上を眺めて視覚的にリンゴが1個あることを確認し、それを証明に代えます。換言すれば、「証明するまでもなく、そこにリンゴが1個あるからそれは正しい」と考えるわけです。それは当然至極のことのように思われるかもしれませんが、実はこの単純明快な証明過程にもある前提が隠されています。私たちが無意識のうちにそなえもっている「リンゴ」という前提概念、すなわち「リンゴというものの定義(根元的約束事)」がそれに相当しているわけなのです。リンゴという概念をあらかじめもっているのでなければ、その存在証明などできるはずがありません。また、「1」という数の概念、すなわち、「1」という数の定義をもあらかじめ前提として認識しておかなければなりません。
では、「リンゴはリンゴである」ことや「1は1であること」を証明できるでしょうか。もちろん、そんなことは不可能ですし、そんな問いかけなどには何の意味もありません。証明という思考過程にはその前提として何かしらの定義や、その定義を基にした明確な前提概念が不可欠なのですが、根元的な定義そのものは証明などできるはずもありません。少々意地悪な話になりますが、「直線は曲線よりも短いことを証明しなさい」と問いかけられたとしてみましょう。実はこの問題は「直線は直線であることを証明しなさい」、あるいは「曲線は曲線であることを証明しなさい」と問われているのと同じことなのです。そもそも、「直線とは2点間を結ぶ線分のうちの最短距離のものをいう。そして直線以外の線分は曲線と呼ぶことにする」と定義されているわけですから、それを自明かつ必然の原理として受け入れるか否かの問題なのであって、もともと証明のしようなどないわけなのです。
証明という思考過程やそれを通して得られる明証性に関しては、必ず「定義」と呼ばれる何かしらの前提概念が存在しているわけで、哲学というものは、定義にまで遡り、さらにはその定義の背景にある諸事象の様態や定義そのものの適否を深く考察する学問だと言ってよいのかもしれません。ホワイトヘッドが「すべては定義に始まり定義に終わる」と述べているのも、多くの人々向かって哲学のもつそのような意義を訴えかける意図があったからに相違ありません。
 ところで、もし私たちが視覚を持っていなかったとすれば、「テーブルの上にリンゴが1個あることを証明しなさい」と問われた場合、それに対応するには触覚、味覚、嗅覚、聴覚をもって臨むしかありません。そうすると、テーブル上のリンゴの存在を立証するには、手先や唇、舌先などで直接対象物に触れたり鼻孔や耳孔を近づけてみたりするしかなくなります。しかもその立証に不可欠な前提概念、すなわち「リンゴというものの定義」自体が視覚主体の通常の定義とはまるで異なるものになってくるはずなのです。単純な事例でもこの有り様ですから、証明という概念全体の実相は奇々怪々そのものなのです。

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