(日本の教育界や学術研究界に思うこと――①)
このところ、諸々の分野における日本の国際的な存在感には顕著な翳りが生じるようになってきている。先進国中における経済力や政治的指導力の衰退がその要因のひとつであることは間違いない。だが、それら一連の負の連鎖の背景に昨今の国内教育界や学術界全体の憂うるべき現状があるとすれば、問題はより深刻だと言わざるをえない。実は、今から12年前、この「時流遡航」というコラムの連載執筆を本誌編集部から依頼され、拙い文章を綴り始めた際、真っ先に論じてみたのは他ならぬ教育問題と学術研究問題だった。本コラムの第1回(10年11月1日号)から第8回(11年2月15日号)にわたる「危機に瀕する日本の高等教育」というテーマでの連載記事がそれである。
それに先立つ08年2月号や09年5月号の「選択」誌上において、そのまま放置しておくと先進諸国から見て周回遅れになりかねない日本の大学運営の実態を危惧する厳しい内容の記事を無署名で執筆したことがあった。同誌編集部に筆者についての問合せがあったのが契機となり、既に学術界を離れて久しい、「三流フリーランスライター」の老身であったにもかかわらず、愛知県岡崎市で催された日本学術会議第3部会において講演を依頼され、野依良治氏、岩澤康弘氏、中村宏樹氏、成田義徳氏ら同会議諸理事をはじめとする80名ほどの国内トップクラスの研究者の前で、私見を述べさせられる羽目になった。
また、その後、それら一連の経緯を基にして、前述したこの「時流遡航」のコラム上のほか、日本経済新聞社刊行の教育誌「ducare」創刊号(09年9月)の巻頭においても「崩壊する日本の大学院教育」というタイトルの記事を執筆することになった。言うまでもないことだが、一介の駄文ライターに過ぎないこの身が、柄にもなく分不相応な一文を述べ綴るに至ったのは、教育界や学術界の着実な維持発展なくしてこの国に未来などないと心底思うようになったからであった。
その時から随分と月日が流れ去り、今年傘寿を迎えるに至った愚身が、今更かつての論考の内容を蒸し返してみたところで所詮老いの繰り言と成り果てるのは明らかゆえ、ここでその論述の委細を再度開陳するつもりはない。ただ、日本の高等教育界や学術研究界の実態がその後改善されていくどころか、むしろ一段と深刻さを増すに至った現状を前にしては、たとえ一笑に付されようとも、少し角度を変えたかたちで、ごくささやかな思いくらいは述べさせてもらったほうがよいかもしれない。それはまた、高い潜在能力を秘める若い世代の人々に、是非ともこの国の未来を守って欲しいと願うからなのである。
(学術教育の充実しか道はない)
これから大学や大学院に進み専門研究の分野に挑もうとする人々には、たとえそれが超難関クラスの大学組織であったとしても、最早、日本のそれらは、世界においてはむろん、アジア地域においてさえもトップクラスの存在ではないのだということを十分自覚しておいてもらいたい。辛辣なことを言うようだが、それは否定し難い事実だからなのである。
大学に進学するまでは受験教科について猛勉強させられていたものの、いったん入学が実現しさえすれば余程のことがないかぎり卒業することができるのは、日本の大学の特徴だと言ってよい。昔からそのような風潮が顕著でありはしたものの、近年一段とその傾向が強まってきたことは否めない。ごく一部に例外はあるにしても、現在では800校を遥かに超える有名無名の大学が乱立し、指導者不足や設備不足その他の理由で、大学とは名ばかりの教育状況に甘んじているところが大半であることも、そんな教育水準低下の要因のひとつにほかならい。入学直後から猛勉強を必須の前提とした厳しくかつ徹底した指導がなされ、それに対応できない不適格者には容赦なく留年や強制退学を迫る海外の先進諸大学とは、その点、極めて対照的な状況にあると言ってよい。
これから大学や大学院で学ぶ学生諸氏にはそのことを十分に弁え、国際的な交流を通じて海外の学生らと切磋琢磨しながら弛まぬ精進を積むことを願ってやまない。一方の大学の指導者らには、たとえ一時的に不満や批判が高まることになろうとも、真の意味で学生らを学問の世界へと導き誘い、その奥行きの深さを悟らせるため、海外先進大学並みの厳しい教育過程を構築してもらいたい。さらにまた、一般の人々にも心しておいて欲しいことがある。昨今テレビなどで目にするような、クイズ番組などに頻繁に登場し、その表面的な知識を以て天才・秀才などと崇められる連中が、学問に深く通じた人物だなどとは間違っても思って欲しくない。もちろん、そんな彼ら自身のほうにすれば、胸中ではその実状を十分に自覚しているのだろうけれども……。心底教育や学術研究に没頭し、日夜研鑽を積んでいる一部の真摯な学生らには、そんな暇などあろうはずもないからなのである。
大学院教育の重要さや国内における近年のその実状については追って述べることにするが、日本の場合には、まず大学の学部教育のありかたからして厳しく見直すべきだろう。そうでなければ、日本の国力は衰退の一途を辿るばかりになるからだ。資源に乏しいこの国が世界の国々と互角に渡り合っていくには、昔から言われているように、教育立国、さらにはその延長上にある学術立国や科学技術立国を目指すしかないからだ。
だが、バブル期という名の爛熟の時代を経て長い衰退期に陥ったこの国では、その煽りを被って教育界や学術界までが以前のような輝きを失ってしまっている。たとえどんなに苛酷ではあっても、今一度、未来を背負う若い世代が夢と誇りとときめきを以て己の能力を真に研磨することのできるような教育や研究の場を取り戻すことが先決問題ではあろう。
若者らの潜在能力を開花させるには、たとえそれらが厳しい修練や忍耐を要し、容易には答えなど得られない至難の道ではあったとしても、教育や学術研究の世界に対する強い憧れを彼らの心中に抱かせるような場所や人材――すなわち、よい意味での「学問幻想」の満ち漂う人的空間の存在が必要不可欠でもあるからなのだ。もっとも、そんな空間に恵まれたとしても、その意義に気づきそれを活用する若者がいなければ全ては無に帰してしまう。
もう随分以前のことになるが、縁あって、東南アジアの国から東大に留学してきていた数人の学生らと歓談したときの衝撃的な想い出が今もなお忘れられない。「東大とは日本で一番優れた大学だと聞いてやってきたのですが、何で日本人の東大生はあんなに勉強しないのでしょうね。もったいないことですね」という痛烈な言葉をその中の一人が吐いたのに続き、他の者たちも即座にそれに同調したからだった。その折の私には返すべき言葉など全く思い当たりもしなかった。その後彼らは、個々の理念の赴くまま、欧米の著名な大学の研究職へと転出したり母国の大学に戻ったりし、今では皆それぞれに国際的な活躍を続けている。