時流遡航

《時流遡航322》 日々諸事遊考(82) (2024,03,15)

(増えすぎた国内大学の閉校や再編成は最早避けられない)
 これまで度々指摘してきたように、04年の国立大学独立行政法人化と並行して実施された大学設置基準法の改正及び同法の規制緩和処置に伴い、国内の大学数は800校を超えるまでに急増してきた。その結果、長年の少子化傾向に起因する近年の大学進学年齢者層の急減によって定員割れを起こし、多くの大学が存亡の危機に瀕しつつある。その典型事例として最近一部マスコミ誌などで報じられているのが、故安倍晋三氏ゆかりの「加計学園系列」に属する千葉科学大学である。経営危機に陥った同大は、救済策として地元の銚子市による公立化を求めているが、どう考えてみても公費の一大浪費としか言いようがない。そんな法外な要請に対しては、毅然とした対応で臨むべきだろう。同大に関しては、以前からその授業レベルについて、最早大学の体を成していないという話が噂にものぼったりしていた。科学大学とは名ばかりで、たとえば数学の授業などでは中学生や高校初学年レベルの教科内容を講義することもしばしばであるという。もちろん、その種の事例は千葉科学大学にとどまらず、国内各地のかなりの数の大学においても起こっているらしい。
 ただ、いまその存続が危ぶまれているのは地方の大学ばかりでなく、大都市圏内の諸々の大学でも同様で、指定校推薦制度、公募推薦制度、総合選抜入試制度(いわゆるAO入試)などに大きく依存し、ひとりでも多くの入学者を確保しようと足掻き苦しんでいるというのがその実情に他ならない。現実的な視点に立って厳しい見方をするならば、それら特別な入試制度によって入学してくる学生は、多々例外はあるものの、全般的には一般入試による入学者よりも学力レベルが低いというのが実態のようである。そんな一連の流れが大学全体の教育水準低下に拍車をかけることは目に見えており、やがてその負の影響が日本の学術界や教育界全般に及び、大幅な国力低下へと繋がっていくだろうことは否めない。真の意味での学術・教育立国をめざすためにも、この際、国内の大学数の削減や再編成はやむを得ないことであり、国民も真摯にそれらの問題に目を向けるべきだろう。また、かつて異常なまでの数の大学新設を意図的に容認した文科省官僚をはじめとする国家官僚らの所業にも、あらためて批判の目を向けるべきではあろう。この国の学術行政の根本的な見直しは、今や避けることのできない喫緊の課題なのである。
 すべての私立大学には私学助成金というかたちで多額の国費が投入されている一方で、地方の国立大学などでは国から投与される運営費の大幅削減に伴い、その研究力や教育力が低下し、大学の存続そのものが危惧される状況になってきている。だが、国内の経済格差が一段と大きくなった昨今では、厳しい生活下に置かれている地方の優秀な高校生などが、卒業後に大都市部の国公立大学などに進学することは難しくなってきている。そのため、その対応策としても、学費も安く現地通学も可能な地方国公立大学の維持とその研究教育力の充実を図ることは、絶対的な優先課題にほかならない。そうでなければ、地方育ちの多くの貴重な若手人材が、先々その生来の高い潜在能力を開花させることもなく終わってしまい、結果的にそれは国力の損失や低下へと直結してしまうからである。
 厳しい言い方になるかもしれないが、大学進学年齢者層減少の日本の国情を考慮するとき、異常なまでに増加した私立大学をはじめとする大学の多くが今後閉校となっていくのは必然の流れでもあるから、敢えてその状況を抑止する必要などないだろう。それによって幾らかでも余裕のできるかもしれない教育関係の国費や公費のほうは、真の意味で必要不可欠な学術研究費の補充へと転用するようにしてもらいたい。
 さらにまた、それらの問題と並んで、大学というものを何かしらの学術的研究を実践する場だと考えるよりも、単に卒業資格を得ることだけの場だと考える学生のほうが多くなってきてしまっている現状についても一考し直す必要があるだろう。海外先進国の大学の多くでは、入学直後から猛勉強を必須の前提とした厳しくかつ徹底した指導と研鑽がなされ、それらに対応できない不適格者には容赦なく留年や強制退学が求められるシステムになっている。要するに、大学の研究教育課程においては、厳格な規制のもと、長期にわたる真剣な学びを通して一定の条件をクリアしなければ、卒業は無論、進級さえもできない制度になっており、その結果、中途退学者も続出するわけである。入学したら余程のことがないかぎり卒業できる国内の大学とはその点で大違いなのである。
卒業論文ひとつをとってみても、日本の場合には就職活動終了後から卒業までのごく短期間に付け焼刃的に仕上げることが常態化しており、学生にとっても、大学にとっても単なる通過儀礼と化してしまっている。大学での研究業績評価などを基にして卒業後に就職先の決まる海外の場合とは異なり、日本の諸企業や諸組織などが、大学新卒者採用の際に卒業論文などの内容を評価の材料とすることなど皆無に近い。問われるのは何処の大学を卒業したかとか、当該企業や組織体への就職を何故希望したのかとか、将来の夢は何なのかとかいうくらいのものである。
(大学システムの厳格化が不可欠)
 ともかくも、これから国内の大学や大学院で学ぶ学生諸氏には、そのような日本の学術研究教育界の現状を十分に認識したうえで、国際的な交流を通じて海外の学生らとも切磋琢磨しながら、長期的展望に立って弛まぬ精進を積みゆくことを願ってやまない。さらにまた、諸大学の指導者らには、たとえ一時的に不満や批判が高まることになろうとも、学生らを真の意味での学問の世界へと導き誘(いざな)い、その奥行きの深さを悟らせるため、海外の先進大学並みの厳しい研究教育課程を構築してもらいたい。日本の国力強化にとってそれは必要不可欠なことであり、また、学術・教育立国を目指すにはそれしか適切な道は残されていないからである。そもそも大学とは単にそこでの生活を楽しむだけの場ではない。
 いまひとつ大学や大学院の研究力や教育力の充実にとって重要なのは、優れた研究者や教育者の選抜と確保であるが、現在にみる異常なまでの実務家教員の増大は問題だと言ってよい。一定数の優れた実務家教員は必要であるが、過去に本格的な学術論文の執筆経験などもなく、ただ自らの社会経験だけを得意げに語るだけの大学教員が跋扈するようになった現状は憂慮すべきであろう。以前に詳述したように、大学設置基準法の教員条項第5項を拡大解釈することによって、安易に実務家教員が誕生できるようにしたことが原因なのだが、その影響を受け、本来重視されるべき基礎学術研究部門や人文科学研究部門の教員ポストが激減している。一流大学の博士課程を好成績で修了した者でさえ勤務先が見つからないばかりか、博士課程への進学者自体が激減しているのは大問題だと言うしかない。

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