時流遡航

《時流遡航》回想の視座から眺める現在と未来(2)(2015,03,01)

(定義に立ち返ることの重要性)
「数学とは言葉である」と述べたが、むろん、数学や物理学の世界で用いられる諸々の数学的記述体系が日常言語のそれとそっくり同じという意味ではない。一般に数学や物理学で用いられる論理記述用語は記号言語と呼ばれるもので、何のトレーニングも基礎学習もなしに突然その種の表記に接したら、意味不明、理解不可能ということで頭を抱え込んでしまうのは必定だ。とくにその分野の研究者でもない人々が、マヤ文明の古代文字やエジプト文明の象形文字の類を目にして戸惑い途方に暮れるのと同じことである。
 話がそこまで極端ではないにしても、我々が外国語を学ぶときには、その言語の基本をなす初等的な約束事(用いられる言葉の定義、さらには文体構成に必要な手順や決まりごとなど)をしっかりと習得したうえで徐々に高度な表現体や表現法を身に着けていく必要がある。実は数学という記号言語の世界に慣れ親しんでいく場合にも同じプロセスが欠かせない。具体的な方法論をこの場で述べるわけにもいかないが、少し遠回りになってもかまわないから、初等あるいは中等学教育期に、ごく易しいやりかたで数学の世界のもつそのような言語的特性をしっかりと教えることができるなら、理系・文系分離、隔絶の状況もいくらかは改善されることだろう。直線の定義や各種公理などは中学校の数学の時間などで簡単に触れられはするが、それら定義や公理の重要性やその奥に隠されている深い意味などについて丁寧に教えられることはない。それゆえ、その種の約束事が日常言語における約束事と同じ働きをしていて、数学という記号言語の世界にとって必須のものであるということを理解している人々は驚くほど少ない。
 ちなみに述べておくと、定義というものの証明は不可能である。たとえば、「青色は青色であることを証明せよ」と言われてもそんなことは誰にもできない。この種の命題を論理学の世界ではトートロジー(同語反復)という。少々意地の悪い出題になるが、もしもトートロジーの類に関心がおありのようなら、「特定の円弧の両端を結ぶ弦の長さは、その円弧の長さより短いことを証明せよ」という数学の問題を考えてもらい、そのうえで、この出題には致命的な欠陥が潜んでいることを確認していただきたい。もう10年ほど前のことになるが、関東地方のある県の教育員会からの依頼を受け、同県の公立高校に勤務する数学教師対象の研修会で講演をさせられたことがあった。その際にもいきなりこの出題をしたことがあったが、定義の話など一切抜きにしての試行だったので、一瞬、多くの参加者が戸惑ったような表情を見せた。そして、しばらくしてからその舞台裏を明かすと会場は笑いに包まれた。
 小・中・高の数学教育、とくに受験の数学教育では、各種計算処理の正確さや速さが過度に重視されるが、実は世の数学者や物理学者というものは必ずしも計算処理は得意でない。ご存知の方も多いだろうが、科学史上の有名人で計算が苦手だった代表的人物は相対性理論で知られるかの天才物理学者アインシュタインである。アインシュタインは四則計算などが大の苦手で、税務書類の計算でミスを犯すこともしばしばだったという。その事実は、図らずも、数学や物理学の世界を支える記号言語体系の理解には計算の速さや正確さやなどは直接関係ないことを物語っている。かく言う私もまた計算は決して得意なほうではなかった。高校時代、大学入試の模試などでちょっと変わった出題があったりすると、その問題の設定法や様々な解き方のほうに興味をそそられ、それらに執着するあまり、結果的に低い得点で終わってしまうようなこともしばしば起こったりした。
(事象全体を捉える真の教養を)
 ホワイトヘッドやラッセルは、定義(根元)に立ち返って物事を考えることの重要性を繰り返し説き、「すべては定義に始まり定義に終わる」とさえ強調しているが、その言葉の重要さと正当さをもっと早い時期に会得していれば、愚かなこの身ももう少しくらいはましな仕事ができたかもしれない。学術体系や各種業務体系を一本の樹木に喩えると、美しい花を咲かせたり、美味なる実をつけたりするのはその枝先の部分である。もちろん、それはそれで重要なことであり、学術や業務上の業績として高く評価されるのはそれらの花や実であることが多い。だが、花や実にこだわるあまり、終始ごく一部の枝先だけにしか思いが及ばないと、その部分が何かの事情で折れたり枯れたりしたときには、その人の仕事もさらにはその人生さえもがそこまでで終わりになってしまいかねない。
だが、樹木の根や幹、さらには大枝、小枝、葉などの全体構成とそれら相互の機能の関係性を折々しっかりと学び押さえておきさえすれば、たとえ自らが小枝の最先端部に位置していて、偶々その箇所が不可避な理由で枯死あるいは損傷される事態が生じたとしても、絶望して自暴自棄になったりすることはない。多少時間はかかっても根幹部分に立ち戻り、樹木全体を支えるその機能の存在と発展に貢献したり、そこから別の枝筋に移って花や実をつける小枝の先端部を再度目指したりすることもできるからだ。ホワイトヘッドやラッセルが常に定義(事象の根元)を見据えることの重要さ、真の教養を修得することの必要性を説いたのは、暗にそのような含みもあったからなのだ。敢えて断っておくが、ここで言う教養とは、クイズ番組などで求められる雑学的知識のことなどではない。特定の専門分野の知識や技能を持ちながらも、研究や業務上の他領域、ひいては学術体系や業務組織体系、さらには社会全体の諸機能様態を見渡し、それらを有機的に連結発展させるに必要な高い見識のことである。まさに文系・理系の枠組みを超越した思考体系にほかならない。
 高校時代、物理の時間にニュートン力学の基本公式f=mαを初めて目にした私は、力をそう定義する理由(もっとも、当時は定義という概念すら理解していなかった)が十分納得できず、そこから先に進めなくなった。自然事象の根幹を深く問う離島育ちの習性が負に働いた結果である。疑問を教師にぶつけると、「お前、こんなことも分からないなら、理系に進むのは無理だ」と一蹴されたものである。米国の一流大学の大学院などで、この力の基本定義の意義や問題点について30時間を超える講義や討論を課していると知ったのはずっと後になってからのことである。考えてみれば、重力による時空の歪みを論じるアインシュタインの一般相対性理論を理解しようとするならば、時間と空間を個別に絶対化し理想化することを前提として初めて成り立つニュートン力学の基本定義の問題点と限界とを直視せざるをえない。換言すれば、根底からその定義を変えなければならないのだ。むろん、高校時代に相対性理論のことなど念頭にあったはずもないが、当時の私の疑問や戸惑いにも一理はあったことになる。定義も公理も絶対ではないのである。

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