時流遡航

《時流遡航236》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (22)(2020,08,15)

(産業形態を基準にして思索の時空を総括する)
 世の片隅においてささやかな日々を送りながら、無力な己の愚にもつかない旅路の跡を顧みる時、ふと思い浮かべるのは、その折々に身を委ねた思考の推移や時空の流れの特質です。自らの過去の生活体験に基づき敢えてそれらを整理するなら、第一次産業的思索時空、第二次産業的思索時空、さらには第三次産業的思索時空に大別できるかもしれません。そして、当然のことですが、各々の時空の流れには一長一短があるようにも思われます。
 離島で過ごした中学生時代までの私を包み込んでくれていたのは、もちろん典型的な第一次産業的思索時空でありました。島民の殆どが第一次産業の象徴でもある農業と漁業の入り混じる半農半漁の自給自足経済主体の生活を送っていたようなわけですから、それは必然の成り行きではあったのです。もっとも、その当時の未熟な私が、そんな思索時空の概念などに思い及ぶことなどあろうはずもなかったのですけれども……。
 第一次産業的思索時空の大きな特質は、比較的ゆっくりとした諸事象の推移のもとで個々人が自主的かつ自立的に与えられた空間に身を置き、そこで生の営みを続けられることかもしれません。もちろん、その地域の住民全体の生活維持基盤を守るために不可欠な、農漁村特有の共同作業はありますけれども、日々の生活そのものは、そこに暮らす人々それぞれの自由意志によって進められるのが普通です。もっとも、四季の循環のような大局的な意味での法則性があるとはいえ、意のままにはならない大自然を相手に様々な思索や工夫をめぐらし、人間社会の食生活を直に支える農漁業に労を厭わず日々勤しむわけですから、ことはそう容易ではありません。
農業などの場合には、四季の移りに鑑みながら、種蒔きや育苗に始まる諸々の農産物の作付けを行い、それなりの時間をかけてそれらを育成し、さらには時期を見計らってその実りを収穫することになります。そう述べると、昔から継承されている伝統的生産法を毎年繰り返しているだけのことで、深い思索や創造性にはまるで無縁な世界みたいに思われるかもしれませんが、それは大きな誤解です。絶え間なく変貌する自然界の様相や生産作業環境、さらには社会の需給関係などを慎重に考慮し、しかも個々人の自己責任を前提とする判断に基づき実践される農業は、想像以上に深い思索を要する仕事ではあるのです。 
どんなに心血を注ぎ込んで作物の栽培に臨んでも、天候不順や想定外の大天災に見舞われ、すべての苦労が水の泡に帰してしまうことも少なくありません。根っからの都会育ちの人々の間では、農業というものが半ば趣味として行う家庭菜園の延長みたいな存在に勘違いされたりすることもあるようなのですが、けっしてそんな甘いものではないのです。作付する作物種の選択や品種改良ひとつをとっても容易なことではありません。
一方の漁業の場合も同様です。年毎に異なる四季の変遷状況や気紛れな日々の天候の変化、日月の運動に伴う潮汐力の推移などに伴って、海流や潮流、波浪の状態は刻々と変動します。また、漁場の立地条件や海中の魚介類の折々の生態、さらには漁獲対象の魚介類に応じた漁法の設定などにも多様な変化がつきものです。魚種による需要供給の相違などをあらかじめ考慮しておく必要もあるでしょう。漁業を営む人々は、それらの問題を総合的に判断したうえで出漁し、漁獲の安定と向上をめざさなければなりません。しかも、それほどまでに用意周到に事に臨んだとしてみても、自然のもたらす不測の事態に対応することは不可能です。悪天候時には命懸けの作業になったりすることも少なくありません。
 ともかくも、第一次産業というものには常に自然任せの一面が伴うため、豊作や豊漁に恵まれたりする一方で、極度の不作や不漁との予期せぬ遭遇を回避することもできません。長年の経験がものをいう分野だとはいってみても、絶対的な対応策など元々存在しない世界ですから、たゆみない自主的な努力と工夫が不可欠ですし、不可抗力とも言うべき不運や不遇に堪え抜くだけの自立自存の覚悟のほども必要です。
そのような特質をもつ第一次産業的思索時空においては、時間と空間はそこに位置する人それぞれの思いに添って流れ進んでいくことになります。そこでの心理的な時間の流れは比較的ゆっくりとしたものであり、その場には自己を主体とした試行錯誤の可能な生活空間が広がりを見せています。第一次産業の世界は知的側面では遅れているなどと見做されがちなのですが、それはとんでもない誤解です。少年期における第一次産業的な生活時空の体験などは、将来の飛躍の基となる思考力や創造力の育成にも繋がるものだからです。
(二次産業的思索時空について)
 第二次産業的思索時空は、各種商工業生産が基盤の都市部などを包み込む、現代日本社会の中核的な時空域にほかなりません。一見したところ、そこは進歩的で知的かつ創造的な時間と空間の流れる世界のように思われます。総てが合理的かつ組織的に構成されたその空間では、社会意識が高くそして豊かで自由な生活が送られているように見えたりもします。また、その時空域に属する人々には、第一次産業的時空に属する世界が文化的主流からは外れているようにも思われたりするものです。しかし、ここはいま少し冷静になって、そのような見解が妥当かどうかを分析してみる必要があるでしょう。
 第二次産業的思索時空というものは、各種生産作業を確実かつ効率的に進める目的で人工的に設定制御されているため、本来的な自然界の様相とは一線を画した存在となっています。通勤通学、職場における各種業務の処理、家庭生活などの実践になどにあっては、その場に流れる時間への対応に正確さを求められ、常に追い立てられているような感覚が潜在しています。空間的な面を取り上げてみても、その時々の認識範囲や行動経路は限定されたものになっており、第一次産業的思索時空のそれほどには自然本来の姿を留めておりません。それなりの例外はありますけれども、その時空に属する人々の殆どは、限定された場所と時間内において生産作業工程の特定の部分だけを受け持っています。そして、そんな環境下にあっては、人々は無意識のうちに時間に縛られ、自由な思考そのものも何時の間にか抑制されてしまうことになっていきます。ただ、厄介なのは、そのような状況下に置かれる人々が、驚くほどにその実態に無自覚であることかもしれません。
 一般に、第二次産業中心の地域に暮らす人々は、第一次産業中心の地域に住む人々よりも自分たちのほうが生活水準も文化的水準も高いと自負しがちです。初等教育から高等教育に至るまでの教育水準ひとつをとってもそう考える人は少なくないでしょう。それが第三次産業的思索時空の世界ともなると更にその傾向は高まるようなのですが、そこには何の問題もないのでしょうか。その考察をさらに深めてみることにしましょう。

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