時流遡航

《時流遡航307》日々諸事遊考(67) ――しばし随想の赴くままに(2023,08,01)

(教育界をリードする人物の度量の意義を考える)
 近年の教育現場の置かれている困難な状況については、国民全体が真摯に向き合わなければならないと思うのだが、一連の問題の根本的な解決は容易ではないだろう。私が知るかぎりにおいても、新人教員や若手教員の研修法、ベテラン教員を中心とした教員相互間の協力のありかた、さらには教育長や教育委員ら教育推進組織上層部の理念とそれらに基づく実践的対応には、地方自治体によって大きな違いがあるように思われてならない。
 老い果てた今となってはおよそ無縁なことなのだが、以前は折々国内各地の教育関連機関からの依頼を受け、各種講演会や教員研修会などの講師を務めさせられることもあった。なかでも、東日本のある県の教育員会などからは、不束な身にもかかわらず再三にわたって講演会の講師を要請され、その度ごとに重い腰を上げながら当地へと足を運んだものである。初めてその県での公立高校教職員対象の講演会に出向いた際などは、常々、その県の歴史的背景の奥深さや教育水準の高さなどを認識していたこともあって、少なからぬ緊張感を覚えたような次第だった。
 ところが、講演前に応接してもらった同県の教育長が、穏やかな表情と見るからに知的な雰囲気を湛えながら私に向かって語り掛けてきてくれた一言は、まったく予想もしていないものだった。各都道府県の教育長ともなると、国の教育政策や文科省の諸々の指針に配慮した慎重な言動を見せるが普通である。当然ながら、この私もそんな応対を予測しながら、内心それなりに身構えていたのだった。だが、驚いたことに、先方は、「一番大事なことは自由に発言して戴くことですから、政府の教育政策批判でも、文科省の教育指針批判でも遠慮なくなさってください。この場は一切オフレコでもあることですからご心配なく……」という一言を述べ伝えてきたのである。
一瞬戸惑いをさえ覚えた私は、軽く頷きながらも、その教育長の顔をじっと見つめ直したものである。その折の講演を契機に、同県の中心的な教育関係者の方々とは忌憚のないやりとりをするようになったのだが、それらの誰しもが謙虚でしかも深くて柔軟な教育理念を持ち具えておられたので、少なからず感銘もしたような次第だった。それから随分と時が流れもしたが、今もなお一部の方々とは、年賀状の交換をはじめとするささやかな交流を維持し続けてきてもいる。
 これはちょっとした笑い話だが、同県の公立中学校・高校学校の校長・教頭研修会なるものが催された折も、一連の講演会の講師の一端を担わされた。講演当初から会場が硬くて形式張った雰囲気に包まれ過ぎるのはまずいと思ったので、一計を案じ、ちょっとしたアイスブレーカーの導入を試みた。ちなみに、ここで言うアイスブレーカーとは、氷の塊を突き崩す小器具のことではなく、講演や会議の際の冒頭などにあって、会場に漂う硬く重苦しい雰囲気を一瞬にして和らげる軽妙なジョークのことである。
 段上に立って一礼したあと、私は静かに切り出した。「本日は不束なこの身の戯言講話にお付き合い賜り恐縮至極に存じおります。ここにご在席の皆様はこの県内におかれては、大変優れた教育者として知られる方々ばかりでいらっしゃいますよね。ところで、この中でお子さんをお持ちの方はどのくらいおいででしょうか。宜しければご挙手願えませんでしょうか」と述べると、多くの人々が一斉に手を挙げた。そこですかさず、私は、「いまご挙手くださった皆様は、ご自分のお子様に関する限りは教育の失敗者であられますよね!」と畳みかけた。すると一瞬にして会場は爆笑の渦に包まれ、そのあとなんとも和やかな雰囲気が場内に漂った。中には、大きく頷きながら苦笑し続ける何人かの方々の姿もあった。
 会場の雰囲気が和らいだお蔭で、相互の自由闊達な意見交換なども実践することができ、ともかくもその講演会は大成功に終わったのだが、それというのも、同県の教育組織上層部の具え持つ高い知見と、この上ない柔軟性の裏付けがあったからにほかならない。もしそれが、権威主義的傾向が強く、柔軟性に欠ける教育指導者の多い地方自治体の場合であったりしたら、そもそも、相当に人を喰ったそんなアイスブレーカーを導入すること自体顰蹙を買ったことだろう。指導的立場にある人々の見識や品格は極めて重要なのである。
(若手教員を温かく見守る上司)
 ある年のこと、やはり同県で催された新人教員や若手教員対象の夏季研修会に講師として招聘されたことがあった。そして、その講座の終了後に、一連の研修会を統括する教育関係者らと歓談する機会があった。その人物らの話によると、昨今は、新人教員のうちのかなりの割合の者が、1年も経たないうちに精神的に不安定な状況に陥ったり、敢えて辞職を申し出たりするようにさえなっているのだそうだ。同県の指導的立場にある教育関係者らは、そんな事態に日々真摯に対応しているのだという。だが、諸々の厳しい教育現場の現状に対する国の教育行政担当者の無理解や、当今の一般国民の教育職に関する認識不足のゆえに、それらの事態の解消は極めて困難だとのことでもあった。
 そして、そんな談話の流れの中にあって、その夏季研修会の総責任者の方が、半ば苦笑しながら私にむかってそっと呟きかけてきた言葉は、これまたまったく想定外のものであった。なんと、それは、「これは立場上、また国や県の制度上、公言はできないことなのですけれどね、ほんとうは数日間にもわたるこんな研修会、若い先生方に真面目に出席してもらう必要はないと思うんですよ。私自身の本心としては、表向きはこの研修会に出席していることにして、その間、どこかに旅にでも出て、当面の心の疲れを癒したり、様々な人々や事物との出合いを通して諸々の社会体験を積んだり、教育者としての将来の大成に備えて修行僧まがいの自己研鑽を試みてみたりして欲しいのです。こちらは内々そんな要請にも対応できるように準備してもいるのですが、そんなことおおっぴらには言えません。この研修会場にやってくる若手教員の中から、そんな猛者が何人も現われることを願ってもいるんですけれどね……」というものだったのだ。
 ここでその県名を明かすわけにはいかないが、人間味に溢れ、教育の本質を深く理解した指導者に牽引されるこの県の教職員は大変恵まれていると思う。また、そんな教職員らによって学びの世界に導かれる生徒たちもまたその分幸運だと言ってよいかもしれない。同県公立高校の数学の先生方を対象とした講演会の講師を務めたこともあったのだが、参加者の皆さん、実に好奇心旺盛で活き活きとした方ばかりで、数理哲学の分野に見られるような、根元的な論理思考の諸問題にも強い関心を抱いておられることが印象的であった。ともかくも巷によく見られる受験技術指導一辺倒の先生方でないことだけは明らかだった。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.