時流遡航

《時流遡航310》日々諸事遊考(70) ――しばし随想の赴くままに(2023,09,15)

(紫陽花の小さな花びらに喚起された老身の妄想)
 まだ紫陽花の季節の名残が漂い、我が家の近辺の遊歩道や公園のあちこちにその残花が見かけられもした2ヶ月ほど前のことである。早朝の散歩の途中、鮮やかな青紫色や赤紫色をした球状の紫陽花の花序を眺めては、そろそろ初夏も終わりだなと思いつつあった。そんな折、公園の片隅でふと目にした紫陽花に近づいてしばし足を止め、まだ美しさを留めるその花びらの一枚一枚にそっと指先で触れてみた。その時のことなのだが、世の一隅で日々ささやかに生きる老人ならではの妄想が突然胸中に湧き上がってきたのである。
 球状の花序を構成する無数の小さな花びらを見つめるうちに胸中深くに浮かんできたのは、この一個の丸く大きな花序を成す花びらの数をかぞえたことのあるような人はいるのだろうかという想いだった。もしそんなことをしようとしたら途方もない手間と時間が掛かるから、まずもってそんな愚行に挑む人など皆無に近いに相違ない。たとえ植物学を専攻するような人々であったとしても、そんな無意味な検証作業に関心を持ち、敢えてそれを実践してみる人物などまずもって有り得ないことだろう。
 だが、仮に、紫陽花の生態に異常なまでの好奇心を抱く風変わりな人物がいたとしてみよう。そしてその人物は、毎年のようにあちこちの丸く大きな紫陽花の花序を切り取り、個々の花序を構成している花びらの数や、それらを裏で支える細枝の数などを正確にかぞえ続ける習癖を持っていたとしてみよう。そんな気違いじみた行為を延々と繰り返す人物の姿を目にした周囲の人々は、軽蔑の念を込めながらひたすら彼を嘲笑するに違いない。そんなことをしてみても、いったいそれに何の意味があるというのか――無益かつ無駄な行為にも程があるというわけである。稀代の奇人変人として、また場合によっては、折角の紫陽花の景観を台無しにする迷惑人として、ひどく疎外されたりもするだろう。
 ところでと言うわけだが、ここからは更に一歩踏み込んで、妄想老人の身ならではの強引な譬話にしばしお付き合い願いたい。もしもの話にはなるのだが、その人物が世人の嘲笑をものともせず、黙々と紫陽花の花序の花びらの数やそれらを支える細枝構造を検証するうち、そこに何かしらの法則性が潜在していることに気付いたとしてみよう。しかも、その法則性が植物学上から見た紫陽花の本質的で子細な生態とも深く結び付くばかりでなく、植物学全般の飛躍的発展をもたらす新理論の誕生にも繋がるものだったとしてみよう。
 やがてその発見が学術的にも高く評価され、各種メディアなどでも喧伝されるようになると、それまで彼を迷惑千万な奇人変人扱いしていた周囲の人々は、手のひらを返したようにその業績を絶賛し、天才研究者あるいは大学者などとして彼を崇め奉るようにもなっていく。勝手と言えば勝手な話なのだが、何時の時代にあっても人間社会の実態とはそのようなものである。長年にわたって培われた諸々の社会的伝統や社会規範、民俗、風習、倫理観、価値観などに従って生きることに慣らされている人間というものにとっては、余程のことがないかぎり、周囲から異端視されるような行動を率先して取ることは難しい。
冷静に考えてみると、「役に立つこと」という世の定番の発想などは、従来の価値観に制御されきった社会における通常の人間の思考・行動体系に沿ったものに過ぎないのだ。「役に立つ」という概念が常に結果論としてあとづけされる思考様態であることを前提にして深慮してみるならば、人間社会の未来というものは「役に立たないこと」からこそ生まれてくることになる。そうしてみると、紫陽花の花序の花びらの数をかぞえるような、愚かそのものに見える異端者の行為の類こそは必要不可欠なものなのだと言うことにもなろう。甚だふざけた譬話ではあるのだが、学術研究の分野に話を置き換えてみると、その種の異端者の行為に象徴されるものこそはまさに基礎学術研究の世界そのものなのである。
 社会的実益性などを一切度外視したうえで、自らの強い好奇心やそれに基づく探究心に促され、万に一つの未知の世界との廻り合いを求めながら、地道な研究に勤しむのが基礎学術研究というものの本質に他ならない。また、たとえそんな世界の扉との偶然な出遇いがあったとしても、その扉を開いた向こうに感動的な光景が待ち受けているとはかぎらない。まして、そこで見出される諸々の事象がすぐさま社会的実利性をもたらすことなど皆無に近いし、たとえそれらの発見が重要な成果として広く認識されるようになるとしても、ほとんどの場合、それはずっとのちのことである。だが、たとえそれが基礎学術研究の宿命であったとしても、日夜その道に真摯に勤しむ研究者が存在しなければ、人間社会は過去に見るような進歩を遂げられはしなかったし、また将来的な発展も望めは」しない。
(通常の紫陽花観賞と応用科学)
 話は前後するが、ここで今一度、先の紫陽花の譬話に立ち戻ってみることにしよう。遊歩道や公園の管理者らは、人々が散策を続けるなかで華麗に咲き誇る紫陽花の美観を楽しんでもらうために、庭師らの協力のもと、それらを植える位置や花の種類、さらにはその色合いの構成などを考える。そしてまた、紫陽花の樹々全体の念入りな手入れなどをも遂行する。一方、そんな紫陽花のつくりだす初夏の景観を楽しむ人々のほうは、個々の花弁の美しい彩りやそれらの微妙な色合いの違いなどを目にして、深い感動や心の安らぎを覚えたりもする。紫陽花の花を切り取って自宅に持ち帰り、花瓶に挿して眺める人もあるだろう。もちろん、紫陽花は生花にも用いられ、鑑賞者の心を感銘させることも少なくない。
 言うまでもないが、誰もがよく知るこの日常的な紫陽花育成やその観賞のありかたのほうは、学術研究の世界に譬えるなら、応用科学の研究に対応している。こちらのほうは誰であっても即座にその意義や役割が理解できるし、実際に日常生活と深く結びついていることも明白だから、その活用法を研究したり普及したりしようとする者を蔑視したり嘲笑したりするような人はまずいない。また、応用科学分野の研究には、それなりの試行錯誤の連続や一定程度の失敗のリスクが伴いはするものの、研究目的はほぼ定まっているだけに、先の知れない基礎科学研究分野ほどのリスクを背負うこともない。
ただ、だからと言って基礎科学分野に進む者がいなくなってしまい、既に完成している基本理論や基本技術に基づき、当面の実用性のみを追究する応用科学研究のみに固執するとすれば、将来のこの国に世界をリードする科学研究力の発展などを求めることは無理至極な話だろう。その研究に実利性や実益性が見られないからと言って、基礎科学研究を軽視してしまうような国には、世界に冠たる未来の存在など期待すべくもないからなのだ。皮肉なことではあるのだが、紫陽花に纏わる愚身ならではの妄想を廻らせるなかで、あらためて基礎学術というものの本質的な意義と重要性に思い至ったようなわけである。

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