時流遡航

《時流遡航298》日々諸事遊考 (58)(2023,03,15)

(専門教育や学術研究問題に思うこと――⑦)
 これまで、日本の大学の教育水準や学術研究体系には大きな翳りが生じ、近年、国際的な場におけるその存在感が薄れつつある状況について愚見を述べさせてもらった。この問題に関する一連論考は今回もって結びとするが、今少しばかり私見を補足しておきたい。
 近年に至るまで国民の誰もが、教育や学術研究分野において日本は世界の先進国のひとつであると自負してきた。だが、冷静に過去を顧みてみると、そのような自負を抱くようになったのは、学問の意義や重要性を真摯に評価し、諸々の学術研究の必要性を心底理解したうえでのことではなかった。残念なことではあるが、この国の高等教育や基礎学術研究などに対する一般的知見というものは、学歴重視社会の実態に象徴されるように、ごく表面的な事象によってのみそのほとんどを占められてしまっている。欧米先進国のそれらに見るような、長く奥深い歴史的伝統に支えられ、確固たる見識として深く社会に根付いたものなどではなかったと思わざるをえない。
大学入試や大学入学の時期くらいまでは高等教育の重要性をもっともらしく説く人が多いにもかかわらず、そこから先の専門教育や学術研究の内情については無関心な人がほとんどなのは大きな問題なのである。それでなくても日本の高等教育や基礎学術研究の先行きが危惧されるようになった昨今にあっては、自らの国の行く末を左右する重大事として、国民の誰もが心してそれらの問題にしっかりと向き合うべきだろう。
(象牙の塔のイメージは誤り)
高等教育や高度な学術研究の世界というと、多くの人々がすぐさま「象牙の塔」的なイメージを想い描き、庶民とはおよそ無縁なお高いところだと敬遠してしまいがちなのだが、実はそのような対応そのものが問題だと言ってよい。それら専門的教育や先端的研究に関わる分野が適切に維持促進されていくには、何よりもまず一般国民の広い支持と理解が不可欠だからなのである。我われ一般国民は、大学や大学院などにおける先駆的学術研究の従事者というものは、社会的な責務を背負って一連の至難な任務に勤しんでくれている人たちなのだと考え、それなりの敬意を払うべきではあるだろう。逆にまた、先駆的学術研究従事者らのほうも、自らの厳しく困難な研究生活を根底で支えてくれているのは一般国民なのだということを心底自覚し、広く庶民に感謝することを忘れてはなるまい。その意味では、常々双方の間に自然かつ友好的な交流が実現できるように、何かしらの意見交換の場や制度が常設されるべきではあるのかもしれない。
東京都大田区や大阪府東大阪市などの下町の一画には天才的技能を持つ様々な技術職人の集団が常在し、通常は控え目で蔭にありながらも、国内外の大企業の生産システムや諸研究施設の中核技術を支えてきている。彼らは並外れた生来の好奇心のもと、気の遠くなるような試行錯誤を繰り返しながら、その特殊技能を磨きに磨いてきているのだ。近年にあっては、諸メディアによる紹介などもあって、そんな天才的職人の多くが一般人からも敬意と親しみの眼差しをもって迎えられ、それなりに親交が深まるようにもなっている。
喩えるなら、諸々の専門部署で先駆的学術研究に携わる人物らも、大学や大学院という名の大都会の下町の一隅にあって人知れず特殊技能の研鑽に勤しむ様々な技術職人集団みたいなものなのだ。そのような意味からしても、先々一般国民が学術研究者の立場を心底理解し支援していくことは必要不可欠だし、一方の研究者らの側も、どんなに多忙であろうとも、一般国民と極力親交を深め、広く謝意を表することを忘れてはなるまい。
(国立大学への国の間接的介入)
 初等中等教育を含めた日本の教育界は、元来、どこか一般庶民が直接には関わり辛い雰囲気を湛えている。ましてや、その世界の最奥部とも言うべき大学や大学院の運営実態や学術政策の展開等について熟知したいと思うことなど皆無に近いに違いない。しかし、近年の日本の大学の全般的な凋落ぶりを目にすると、ここは一般国民の学術行政に対する目覚めと関心の高まりに期待していくしかない。昨今の大学運営や学術政策の遂行には国内の政治的意向が大きく関わっているため、多くの国民の支持支援や理解なしには状況の打開は困難だからなのである。
 2004年、小泉政権下において実施された国立大学の法人化や、それに伴う大学運営交付金の減少その他の負の影響については既に述べてきた。ただ、いまひとつ補足しておきたい大学法人化政策の負の結果は、事実上の「大学の自治権の喪失」の件なのである。従来、各国立大学には教授会で選ばれた委員によって構成される最高意思決定機関の評議会が存在していた。そして、この評議会は、全教職員による選挙で選ばれた総長や学長を最終的に指名する権限を有していた。だが、その法人化の際に同システムは変更され、教職員による投票は過渡的な意向把握のプロセスへと格下げされた。そして、文科省の政索に沿って新たに設けられた学長選考会議が、各大学のトップを選出する運びとなったのだ。
 第2次安倍晋三政権下の2014年に入るとさらに国立大学法人法が改正され、総長や学長の選考方法自体をも選考会議が独自に決められるようになったばかりか、同時に行われた学校教育法の改正により、大学教授会の機能や権限は学長らにとっての都合のよい諮問機関へと貶(おとし)められてしまったのである。大学トップの権限が強化されたうえ、彼らは学長選考会議メンバーを自ら指名できるようにもなった。それゆえ、その気になれば教職員全体の意見など一切聞くことなく、意のままに大学を運営できるようになったのだった。
 また、2020年代に入ると、国は「学長選考会議」の呼称を「学長選考・監察会議」という新名称に変更し、文科大臣が任命し各大学に2名ほどずつ送り込む監事の権限を強化した。その結果、間接的であるとはいえ、国立大学に対する政府の支配と統制力は強化され、国の意向に従わない学長らに圧力を加えたり、裏で解任への流れを画策したりすることが可能にもなった。北海道の国立大学の前総長解任のケースや、東北地方の国立大学の学長に大学教授経験者ではなく文科省出身の官僚が就任した事例などは、かつてのような大学の自治権が失われてしまったことを端的に物語っているとも言えよう。
 厳しい政治的批判をも厭わない日本学術会議所属の研究者たちにコンプレックスを抱いてきた政治家や官僚らは、内心、学術会議の衰退などを望んでいるのかもしれないが、そんなことで学問の自由や学術界の自治が損なわれたらもうこの国は終わりである。この事態を克服するには、学術界に対する国民の真の理解と支持とが不可欠だと言ってよい。国が2024年度からの導入を目指す「国際卓越研究大学」制度に関しても、多額な資金を餌にした国策の強制や思想的支配に晒されぬよう心することは研究者にとって肝要だろう。

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