時流遡航

《時流遡航》エリザベス女王戴冠式と皇太子訪英(5)(2014,10,15)

 小川芳男(元東京外国語大学学長)は、非公式のときには王子や王女らロイヤルファミリーが裏口から自由に外出し、市民と自然に接していることなどについても感動的に述べ語り、「戴冠式というものは、王位継承者が王冠を戴くばかりでなく、人民への奉仕・義務・愛を誓う儀式である」と特筆することも忘れなかった。これらの一文からは、英国民とロイヤルファミリーとの関係にあらためて驚きの目を見張ったその折の小川の様子が偲ばれる。
 あるとき『巷の英語』を手にした石田は、少々悪戯っぽい微笑みを浮かべながら、「あの頃はよく小川君を案内していろんなところに行ったんですけどね。当時の彼の英語は正統過ぎて文字通りの意味での英国の巷にあってはあんまり通じませんでしてね。でも、そんな小川君がこんなにも洒落た、しかも実に立派な内容の本を書き残したのですから、この世の中ってつくづく面白いものだと思うんですよ」と懐かしそうに語ってくれた。
 5月になるとNHK番組においても日本国民に広く知られていた徳川夢声が英国入りした。その半年ほど前にNHKが名アナウンサー藤倉修一をBBC日本語部に派遣したのは、エリザベス女王戴冠式の日本向け実況放送を任せるためであった。藤倉はNHKでの長年の経験と独特の感性や話術を活かしBBC日本語放送でも様々な番組を担当したが、彼にとってそれらは本来の仕事ではなかった。いっぽう、そんな藤倉に対抗するかたちで戴冠式実況放送のためにTBSから送り込まれたのが、ほかならぬ徳川なのだった。言うなれば、エリザベス女王戴冠式の場を巌流島代わりにして、藤倉武蔵と徳川小次郎の一大決闘が行われようとしていたわけである。
 ただ、そうは言ってみても、徳川夢声は藤倉修一が司会を務める番組にしょっちゅう登場していたので、当然二人はごく親しい間柄でもあった。そもそも藤倉が前年の12月末に日本を発つ前、送別会で挨拶をしてくれたのはほかならぬ徳川夢声なのだった。だから、夢声夫妻がロンドンに到着したとき藤倉は空港まで出迎えに行った。さらに皮肉なことには、夢声夫妻の滞在したホテルが藤倉の下宿先のすぐそばという偶然が生じもした。だから、英国版巌流島の決闘を前にしても、闘争心はさっぱり高まりをみせなかった。
 それどころか、決戦を前にしたある日、徳川小次郎が藤倉武蔵の本拠地であるBBC日本語部を訪れ、日本語放送に生出演するという珍妙な事態も起こったりしていたから、見せかけだけの馴れ合い決闘に終始しかねないおそれもあった。ロンドンでのホテル住まいが性に合わず不自由さを覚えたらしい徳川は、ホテルでの朝食を終えるとすぐに藤倉の下宿部屋にやってきた。まるで徳川は藤倉の下宿部屋をNHKのサロンかなにかと勘違いしているのではないかと思われるほどで、藤倉がはるばる東京から持参してきた貴重な日本茶を遠慮なく飲み漁り、これまた貴重な茶菓子を次々と貪る始末だった。
しかも、藤倉がBBC日本語部に出勤している間、夢声は来るべき戴冠式の日の決闘相手の机を勝手に使って自らの仕事を進め、決闘に備えて秘策を練るという有り様だった。
 徳川夢声も当時デンスケと呼ばれた録音機を持参してきてはいたが、録音機そのもの性能の悪さに加え機械操作に不慣れなゆえのミスなどもあって、TBSのそのデンスケはよく故障を起こした。そんな時、夢声は、「すまんのですが、お宅のやつをちょっとばかり拝借させてもらいますわ」といって、NHKのデンスケを何度も借用したのだった。その表情には申し訳なく思っている様子など少しも感じられなかったが、どうしても藤倉はその要請を断ることができなかった。TBS派遣の夢声が故障した自らのデンスケの代わりにNHKのデンスケを借用するということは、巌流島の決闘を前にして修練中の佐々木小次郎が、自分の刀の切れ味が悪いのでちゃっかり相手の宮本武蔵の刀を借りて修練を積むようなものだったが、徳川には悪びれたところなど全く感じられなかった。
 石田自身はもちろんそれまで徳川との面識はなかったのだが、藤倉の紹介によって夢声夫妻とも親しく交流することができるようになった。トーキー(音声入り)映画が普及する以前の無声映画の時代には高名な「活動写真弁士」として一世を風靡し、その後も各種ラジオ番組にレギュラー出演して活躍し続け、日本国内では誰ひとりとして知らない者のいなかったこの稀代の人物と、祖国から遠く離れたロンドンの地で巡り合うことになろうとは、文字通り奇縁としか言いようのない出来事だった。
(皇太子殿下の案内役に抜擢も)
 エリザベス女王と日本の皇太子との会見が終わると、英国の報道関係者の関心は、戴冠式出席のため続々と渡英してくる各国元首の動向、常々英王室と親交のある他国の王族の英国滞在中の様子、さらには戴冠式に備えた国内の諸情況などのほうへと移っていった。そのため日本の皇太子が特別に注目を浴びることもなくなり、やがて英国民のほとんどはその存在を気にかけるようなこともなくなった。そして、思いがけなくも、そんな一連の情況が若い皇太子にロンドン探訪の絶好の機会をもたらしてくれることになった。ロンドン市中を自由に歩き回ったとしても、それが日本の皇太子だと気づかれたり騒がれたりする心配がまたくなくなったからだった。
 そのようなわけで日本大使館に滞在中の皇太子は、折々ロンドン周辺の各所をふらりと訪問されるようになった。もちろん、そうはいってもさすがにおひとりでというわけにはいかないので、お供の者が付き添いはした。それでも、たいていは宮内庁直属の随行員が2人ほどと、ガイドと通訳を兼ねたロンドンの事情通の者が1人か2人付くくらいのものだったから、少ない時には皇太子を含めて4人、多い時でも総勢6人程度のものであった。
 その時に宮内庁から派遣されていた随行員は英語があまりうまくはなかった。松本駐英大使夫妻をのぞくと、日本大使館員でさえ必ずしも英語が流暢とは言い難い終戦直後の時代のことだったから、それはけっして不思議な話ではなかった。ましてや、英語がうまく、ロンドンをはじめとする英国内の諸事情に通じ、しかも随時それなりに時間のとれる在英日本人ということになると、そうそう容易には見つかるはずもなかった。その意味では石田達夫は皇太子の案内役としては願ってもない存在だった。さらに、石田が英国民の誇りとするBBCのアナウンサー兼放送記者であり、松本俊一駐英大使夫妻の信頼が厚かったこともその大役を任じられる要因となった。むろん、石田にとっても、自らの担当番組で英国での皇太子のご様子を逐次報道するうえで、それは有り難い話であった。当然、BBC側も石田のスケジュールを調整し、任務遂行のために便宜をはかってくれた。

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