時流遡航

《時流遡航》夢想愚考――我がこころの旅路(17)(2017,10,01)

(若狭の画家、渡辺淳さんの急逝を悼む)
 去る8月14日の午後のこと、若狭出身の作家・水上勉氏ゆかりの施設「若州一滴文庫」で長年竹紙漉きをやっておられる西村さんという方から突然電話が掛かってきた。長年の親交はあるものの、よほどのことでもないかぎり電話を掛けてこられる方ではないので、一瞬、悪い予感が胸中に湧き上がった。そして、その予感は的中してしまった。耳元に響き伝わったのは、「渡辺淳(すなお)さんが今朝急逝されました」という短い訃報の一言だった。
 受話器を置いた私は、無言のままでしばしその場に腰を下ろした。そんな私の脳裏を廻ったのは、親しい人の死に伴うべきはずの悼みの感情を超越した、言葉には尽くし難い不思議な思念の数々だった。初めての出合いの折の情景や二人で出掛けた旅先での懐かしい想い出などが、故人への深い感謝の念に包まれるようにして次々と脳裏に甦ってきた。
 渡辺淳さんは知る人ぞ知る若狭大飯町在住の著名な画家で、終始自然体のままでその生に向き合うとても心温かい人物として地元の誰からも敬愛されていた。また、若狭一帯の景観やそこで暮らす人々の生活風景をテーマにした感動的な描画作品群、さらには数々の水上勉文学作品の装丁画や挿絵などでもでも知られており、生前の水上勉氏が誰よりも信頼を寄せていた人物でもあった。各種の切手や広告類の図柄のデザインなどにおいて、長年にわたって多大な貢献を果たしてきたことでも名高い。
 今から30年ほど前の昭和63年の晩秋のこと、車を走らせ越前海岸から敦賀に入った私は、三方、小浜を経て舞鶴へと続く若狭路伝いに丹後半島方面へと抜けようとしていた。そして、JR線若狭本郷駅前を通り過ぎた直後のこと、突然、「竹人形文楽の里、若州一滴文庫」という小さな案内板の墨書の文字が目に飛び込んできた。その場を一旦通過し50メートルほど進んだのだが、「竹人形文楽」というどこか呪縛の響きをも秘めたその言葉に誘(いざな)われた私は、車をUターンさせると綾部方面へと分岐する道に入った。そしてその地点から10分ほど走ると、瓦葺屋根と茅葺屋根の和風建物群からなる若州一滴文庫に到着した。晩秋の雨模様の日の、しかも夕刻近くのことだったので来訪者は私唯一人だけだった。
 佐分利川沿いの大飯町岡田という小集落の一角にあるこの若州一滴文庫が作家水上勉氏によって創立されたものであると知ったのは、施設内に入館してからであった。実は水上氏はこの岡田集落の出身だったのだ。本館、竹人形館、車椅子劇場、茅葺屋、六角堂、水車小屋、陶芸工房などからなるこの施設は想像した以上に立派なものだった。閉館時刻も迫ってきていたことなので、私は竹人形館と本館だけを見学することにし、まず竹人形館へと足を運んだ。そこには「越後つついし親不知」や「越前竹人形」などの水上文学作品を基にした文楽劇用に制作された数々の竹人形や竹人形面が展示されていた。それら一群の人形と対面した刹那、私は感動というよりはある種の戦慄に近い衝動に襲われた。それらは「人形」というよりは、神、聖、俗、鬼、美、艶、醜、妬、喜、怒、哀、楽などを見事なまでに表象した「心形」そのものだったからである。
また、この竹人形館の2階の展示室で、「秋夜」と「生きる日死ぬ日」という水上作品の装丁用原画を目にして深い感動を覚えることになった。淡い月明かりに夜の川面が幽かに光る河原を描いた「秋夜」という絵からは、この地に産声をあげ、ささやかな生を営み、そして一握の土塊へと還っていった無数の人々の悲喜交々な叫び声がいまにも聞こえてきそうであった。仄白(ほのじろ)く浮かび、あるいはまた黒い影を見せて息づく草木の一本一本が精霊を内にはらみ、ひそやかな言葉を発してもいた。また、「生きる日死ぬ日」の装丁用原画も実に魅惑的なものであった。見る者の心を瞬時に魅了してやまない温かな光を放つランプの絵は、その画家の厳しいけれども優しく大きな心そのものを物語っていたし、光に酔い痴れ嬉々としてランプのまわりを飛び交う蛾の姿は、その人の命あるものへの深い思いを暗示してもいた。その作者名を確かめてみると「渡辺淳」となっていた。
 一滴文庫本館の奥の部屋には、水上先生と親交のあった須田剋太や丸木位里らの大作画のほか、斎藤真一、秋野不矩など著名な画家らの小ぶりな作品も多数展示されていた。またその本館の展示作品群の中に、薄明りの夜の草叢を乱舞する蛾の光景を描いた大きな油絵作品もあったが、その作者名もやはり「渡辺淳」となっていた。一滴文庫の原点となった水上先生寄贈の書籍数万冊の収まる本館内の書庫を見学してから、私は退館しようと思い玄関先に」出た。そしてその直後に我々二人は運命の出合いをすることになったのだ。
(渡辺淳さんとの出合いと別れ)
 制作中の絵のキャンパスの立ち並ぶアトリエ内に安置された棺の中で眠る渡辺さんのお顔は穏やかそのものだった。朝風呂に入浴中、そのまま永遠(とわ)の眠りにつかれたのだという。30年前のあの日、一滴文庫を辞そうとしていた私は、敷地内の一角で折からの雨に濡れながら、大量の竹の皮を大釜で茹でている50代半ばのがっしりした体格の人物を目にし、その仕事ぶりに興味を惹かれて声を掛けた。驚いたことに、何とそれが画家の渡辺淳さんその人だったのだ。その場で瞬時に意気投合した我々は、それを契機に深い親交を結ぶようになったのである。以来、私は折あるごとに大飯町川上集落にある渡辺さんのアトリエ「山椒庵」を泊りがけで訪ねるようになり、時の経つのも忘れて歓談に耽ったものだった。
 渡辺さんを介して水上勉氏とも懇意にしてもらえるようになり、04年に他界なさる直前まで、度々そのお姿を直に拝見しながら作家というものの何たるかを学ばせて戴いた。文章執筆に関しても直接に様々なご指導を賜ったような次第だった。「物書きというものは世の一隅にあって真摯に文章執筆と取り組むべきだ。いい気になってテレビなんかに出るんじゃない」という箴言(しんげん)は今も心に残っている。そんな先生の勧めもあって、若州一滴文庫の機関誌において紀行体の手稿を連載執筆するようになり、そのなかの「佐分利谷の奇遇」という作品でのちに奥の細道文学賞を受賞することになった。その作品は、その折の渡辺淳さんと私との感動的な出合いの一部始終を描いたものだったのだ。
 93年には週刊朝日で「怪奇十三面章」という連載コラムを執筆したが、その際の挿絵は渡辺さんにお願いした。それ以降、各種コラムやエッセイの執筆、さらには書籍類の刊行に伴う装画や挿絵の制作一切を依頼することにもなった。二人だけで国内各地へと気ままな旅にも出向いたが、なかでも拙稿「奥の脇道放浪記」で描いた東北地方での10日間にわたる究極の貧乏旅行は、珍道中の連続だったこともあって生涯忘れ難いものとなった。
 そんな故人の姿に向かって合掌した私は、「我もまたやがて往くべき彼岸にて会はんとぞ願ふ涙ながらに」という別れの一首を色紙にしたため、棺の傍に捧げ置いた。

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