時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (4)(2019,11,15)

(個々人の思考法と原風景との関係を考える)
 よく私たちが見聞きする言葉のひとつに「原風景」というものがあります。一般的には、「原風景」という言葉は、ある人がそのもとで幼年期や少年期を過ごした自然環境や生活環境のことを意味しています。より踏み込んだ言い方をすれば、無意識のうちに幼少年期の心の奥深くに刻まれたそれら自然環境や生活環境様態についての根源的な記憶ということになるのかもしれません。ある自然環境や生活環境のなかで実際に暮らしている時にはその影響をとくに意識するようなことはないのですが、成人してその地を離れ、大都会などのような異郷の地で新たな生活を送ったりするようになると、何かにつけてそんな原風景の数々が突然に甦ったりしてくるものです。しかも、日常的には蔭に隠れているにもかかわらず、それらがその人自身を支える大きな力となってくれるようなことも少なくありません。そして、そんな折などには、あらためて原風景の存在というものの重要さを痛感させられもするものです。もちろん、生活環境に根差す原風景というものは人それぞれであり、都会育ちの人には都会という環境ならではの原風景が存在しているわけなのです。
 先年のことですが、ある市民グループ主催の映画鑑賞会に出向いた際、映画鑑賞終了後に参加者らのためにちょっとした交流の場が設けられました。このときの映画が、たまたま欧州先進諸国における食糧品浪費の実態や、余剰食糧・賞味期限切れ食品などの目に余る廃棄処分の問題点などを鋭く追及した作品でしたので、現代の日本社会にもそのまま当て嵌ることだとして皆の間で議論が深められもしました。そんな議論のなかにおいて、貧しかった一昔前の日本社会の話などが出たこともあって、私は久々に自らが育った鹿児島県の離島での生活、さらにはその島の諸々の自然環境のことなどを懐かしく想い起こしました。私の心中で深い眠りにつきかけていた原風景が久々に覚醒し、脳裏に浮かび甦ってきたというわけなのでした。
 鹿児島県薩摩半島の西方海上四十キロほどのところには、上甑(かみこしき)島(じま)、中甑(なかこしき)島(じま)、下甑(しもこしき)島(じま)という3島から成る小列島が存在しています。そして、通常、それら主要3島とそれらを取り巻く数々の小島は一括して甑(こしき)島(じま)と呼ばれています。近年国定公園に指定されたこともあって、昨今はかなり多くの人々の間でその名を知られるようにもなってきましたが、私がまだ若かった頃には、他県の人々はもちろんのこと、鹿児島県人でさえもその存在に関心を抱いてくれる人々の数は極めて少なかったものでした。
同じ鹿児島県に所属する離島でも、種子島、屋久島、奄美大島などのほうは昔から全国的にもよく知られていましたが、「甑島」というと、「そんな島どこにあったんだっけ……そもそも『甑』っていうその風変わりな字は、いったいなんて読むんだい?」などと首を傾げられるのが常でした。現在では全島が薩摩川内市に編入されている甑島ですが、私が住んでいた当時は、島内には里村、上甑村、鹿島村、下甑村の4村が存在していて、人口は全体で2万人ほどはありました。ただ、近年国内各地で起こっている過疎化現象を象徴するかのように、現在、同島の総人口は4千人を割り込むまでに落ち込んでいるようです。
 私が戦時中の横浜から2歳半ば過ぎにその地へと疎開して以降、中学校卒業時までの期間を過ごしたのは、上甑島に位置する里村、すなわち、現在の薩摩川内市里町でした。半農半漁の小村である里村の当時の人口は4千人弱で、全体としては自給自足的な生活体系が敷かれていました。住民の生活はとても貧しかったのですが、その分相互扶助の精神とそれに基づく住民同士の絆は極めて強く、様々な共同作業などもごく自然なかたちで行われていたものです。島を取り巻く青く澄み渡った海々やそこに棲息する各種の魚介類、奇岩奇勝に恵まれた風光明媚な海岸線の数々、様々な生物の棲む小川、水田や段々畑の広がる集落周辺の里山、自生の植物群や多様な照葉樹林に覆われた山々、そしてそこに棲息する大小の鳥類や野生の小動物たち――のちにして思えば、それら特異な自然環境や、たとえ貧しくはあっても本質的な自活力の維持形成へと繋がる特殊な生活環境が、知らず知らずのうちに心中深くに投影され、私の原風景となって自然に定着したものらしいのです。ただ、島で暮らしていた幼年期や少年期には遠く離れた本土各地での生活環境への憧れが先立ち、自らの育った環境の持つ重要な意義などには思い及びもしませんでした。
 これからしばらくの間は、そんな私自身の心の原風景、すなわち遠い昔の個人的な自然体験や生活経験の消し難い残像に基づく、自らの思考の形成過程やその実態などについて述べさせてもらうことになりますので、その旨あらかじめご諒承願えれば幸いです。
(闇の世界を原風景のひとつに)
 昨今にあっては「闇」というものはまるで悪の象徴でもあるかのように受け止められ、万事において明るい世界こそが重要かつ不可欠なものだと考えられるようになっています。そんな時流の直中にありながらも、「真の闇」を原風景のひとつとして心中に抱くかつての島育ちの私などは、この日本から文字通りの闇の世界なるものが失われつつあることを残念に思ったりもするのです。現在では、日本各地の諸々の離島を訪ねてみても、名だたる高山や深山に分け入ってみても、かつて私が経験したような闇の世界を目にするようなことはまずありません。山奥や海辺を問わず日本国中を隅々まで訪ね歩き、九州、四国、本州、北海道の海岸線のほぼすべてを車で走破し尽くしたという風変わりな経験を持つ私ですが、そんな一連の旅路のなかにあっても、子どもの頃に体験したような「真の闇」と呼ぶに相応しい暗闇に遭遇したのはほんの数回に過ぎません。離島に渡ったとしても今では至る所に照明灯が設置されていますし、南北両アルプスなどをはじめとする高山の頂きに深夜佇んでみたとしても、遠く広がる山並みの向こうが幽かに明るんで見えたり、眼下遥かに点々と灯る明かりが目にとまったりもします。宇宙空間から撮影された夜の日本列島の明るく浮かび上がった姿そのものが、現状のすべてをよく物語ってもいるのでしょう。
 私が暮らしていた頃の甑島には街灯の類などひとつもありませんでした。また、各戸につき20ワットの暗い白熱電燈一個のみを灯すことだけが許されており、その電燈もあたりが暗くなる夕刻時に送電が始まると点灯し、外が明るくなる早朝時には送電が終わって消灯するという状況でした。ですから、闇夜の晩などは一歩戸外に出ればあたりは文字通り真っ暗で1歩2歩先でさえもまったく見えないくらいでした。集落周辺の浜辺や野原はおろか、集落内の道路や広場さえも深々と闇の底に沈んでいる有様だったのです。しかしながら、今では国内からすっかり失われてしまったそんな暗闇の世界は、幼なかった私に深い感動や自然界への柔軟な適応能力をもたらしてもくれたのです。

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