時流遡航

《時流遡航263》日々諸事遊考 (23)(2021,10,01)

(自分の旅を創る~想い出深い人生の軌跡を刻むには――⑭)
(旅により深い想いに覚醒する )
 時の流れに身を委ねながら好奇心の赴くままに旅をしていると、ちょっとしたことが契機となって、折々深い想いに入り耽ることも少なくありません。そしてまた、そんな特別な想いというものは、その旅人の人生観や自然観に大きな影響をもたらしもしてくれがちです。その種の想いにつきましては、たとえこの身のような不束な存在であっても、それなりの経験に事欠くことはありません。
 離島での生活において、漆黒の闇夜の中を独りうろつくことなど何とも思わず育った身ゆえに、日本各地の深い山地や人里離れた辺鄙な海岸線などを、深夜、何の躊躇いもなく廻り歩いてきました。ただ、そんな愚行を重ね続けていくうちに、ある時から、真の闇と呼ぶことのできるものが国内各地からどんどんと失われていきつつあることに気づくようにもなりました。各種の照明施設類が全国津々浦々にまで行き渡ったせいで、夜間に高山に登っても遠くに浮かぶ地平線や水平線、さらには遠い山々の向こうが幽かながらもぼんやりと輝いて見えたり、眼下遥かなところではあっても何らかの小さな明かりや車のヘッドランプらしいものが点々と見えたりし、人工的な明かりが皆無の場所を探すことなど不可能に近い状態になってきたのでした。また、日本アルプス連峰などをはじめとする諸々の高山地帯や富士山麓青木ヶ原のような深い森林地帯を訪ねても、頭上に広がる天空そのものが幼い頃の私が目にした昔日のそれに較べると明るくて、その分、夜空全体に浮かんで見える星々の数が少なくなってしまったのも気になるところでした。いまではあちこちの離島などを訪ねてみても、街灯をはじめとする照明器具類がそれなりに配備されていることもあり、もう昔ながらの闇夜との遭遇を期待することはできそうにありません。
 人工衛星によって撮影された夜間の日本列島一帯の映像を眺めやると、列島全体がひときわ明るく輝き浮かんで見える有様ですから、昔ながらの闇夜や満天の星空を望むのは今更無理な話ではあるのでしょう。そしてまた、社会的に日常生活の安全性が優先かつ強調される近年の風潮下にあっては、どうしても暗闇というものの存在には「悪」のイメージが付き纏ってしまいがちです。明るいことは良いことだとされる一方で、闇の空間の存在意義というものが忘れ去られていくばかりなのは、いささか残念にも思われてなりません。真の闇の中に身を置くと、おのずから視覚をも含めた五感が鋭く研ぎ澄まされ、すっかり忘れかけていた様々な感性が蘇生されたりもするのですが、最早、進んでそんな体験を積むことを望むような人も少なくなってきてしまいました。
その意味では、深閑とした闇の中に独り身を置き、どこからともなく聞こえてくる微かな物音や小さな虫の音に耳を傾けたり、辺りに漂う大気の動きを全身で察知したり、微生物や苔類の放つ仄かな光を感じ取ったりすることを楽しむこの身などは、変人の類にほかならないということになるのでしょう。ただ、名刹として知られる長野の善光寺の地下などには、一時的に漆黒の闇の中に身を置きながら己の五感を磨き直し、世俗化した心身を省みるための空間などもあることですから、せめて一生に一度くらいはそんな特別な場所に出向き、現世から失われつつある真の闇を体感してみることも必要ではあるでしょう。
 幸い、北海道のオホーツク海沿岸の一部やその内陸部の原生林地帯、同じく北海道オンネトー湖畔からさらに奥に分け入ったところにある湯の滝一帯、前述した青木ヶ原、紀伊山地の一部地域、九州の五家荘や椎葉地区の集落から外れた山間部などのように、周辺に人工的な明かりが皆無で、漆黒に近い闇の世界を体感できるところも幾らかは残ってはいます。ただ、暗さを無くすことこそが文明の証であるとする現代的な時流の下にあっては、そのような場所も次々に姿を消していくに違いありません。視点を変えれば、闇の空間もいまや保護すべき重要な自然環境のひとつだということになるのではないでしょうか。
(最適な自然環境下で聴く名曲)
 自分なりの旅を続けるなかでは、ふとしたことからあらためて音楽というものについて考えさせられることも少なくありません。その世界についてはほぼ素人の身なのですが、折々クラシック音楽に耳を傾けたり、たまにコンサートに出向いたりすること自体は嫌いではありませんでした。ただ、文章執筆を仕事とするフリーランスの世界に転じ、各種取材を兼ねて車に寝泊りしながら国内各地を旅するようになるまでは、演奏会の催されるコンサート会場で名曲に耳を傾けるか、自宅でテープやCDを作動させて諸々の楽曲を楽しむかするくらいのものでした。車の旅をするようになってからも、運転中にカーステレオから各種の音楽を流し聴くことはよくありましたが、だからと言ってそれらの楽曲の奥に作曲者が秘め込んだ深い思索や情感の背景にまで想いを廻らすようなことはありませんでした。
 ところが、ある年の晩春から初夏にかけての折のこと、残雪の輝く鳥海山を背にして最上川右岸一帯に広がる静かな田園地帯の中を走行していた私は、農道脇の一角に車を止め、その美しい田園風景の直中に身を置きながらしばしの休息をとることにしました。その時、たまたまベートーベンの交響曲第6番「田園」のCDがあることを想い出し、すぐにその曲を流し始めたのです。すると、突然、コンサート会場で聴く生演奏の感動とは一味異なる不思議な感動が胸中一杯に湧き上がってきたのです。それはまさに、「田園」という名曲と自らを取り巻く現実の自然環境、さらにはその曲に反応する自らの心やそれが生み出す想像の空間が瞬時に融合かつ一体化することによってもたらされた深い感動だったのです。
 その体験をして以降、私は好みの楽曲のCDを車に積んでおき、旅先でいずれかの曲を聴くに相応しい環境の具わる場所を探し当てると、しばしそこで休息をとりながらその曲に聴き入るようになりました。ある晩秋の夜遅くなどは、深夜に諏訪湖の北西に聳える高ボッチ山頂脇の駐車場に出向いたものです。360度の展望で名高い高ボッチ山の頂からは、日中なら浅間山、八ヶ岳、富士山、南アルプス、中央アルプス、北アルプス、戸隠連峰などの山々のほか、眼下には諏訪湖や松本盆地の一帯を一望することができもします。深夜のその時刻には一連の名峰群は満天の星空の下で静かな眠りに就いていたのですが、そこで私が聴き入ったのはバッハ作曲のパイプオルガンの名曲「トッカータとフーガ」なのでした。荘厳このうえないその楽曲の響きに感動で身を震わせながら、独り車窓から仰ぎ見る星空は神秘的そのもので、バッハがその一曲に托した久遠の想いの一端が偲ばれさえもしたものです。北海道北部のサロベツ原野から西方に浮かぶ利尻島の島影にかかる三日月を遠望しながら、ワグナー作曲のオペラ曲、「彷徨えるオランダ人」に聴き入った時も同様に深い感銘を覚えたような次第でした。ある意味贅沢な経験ではありましたけれども……。

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