山中伸弥京都大学教授へのノーベル医学生理学賞授与が発表になると、国内メディアはおきまりのように大騒ぎを繰り広げた。さらにまた、世界に先駆けiPS細胞技術を臨床治療に応用することに成功したとの怪論文までが公表され、それを真に受けた一部の大手メディアが誤報騒ぎまで起こすという異常事態へと発展した。だが、これまたいつものことながら、それから1ヶ月が経った今では、その騒動もすっかり忘れ去られようとしている。ノーベル賞授与式が催される折にもう一騒ぎ起こりはするだろうが、それとても一過性のものになるに違いない。そうしてみると、山中教授のノーベル賞受賞問題の背景を絶賛一辺倒の視線とは異なる角度から考察するには今がほどよい時節であるのかもしれない。
ノーベル受賞決定直後の会見で、山中教授は、「まさに日本という国が受賞した賞だと感じています」とその喜びを語り、日本国民や日本政府の支援に対する感謝の気持ちを表明した。だが、斜めから物事を眺める悪癖を持つ筆者などは、どうしてもその言葉を素直に受け取ることはできない。国民への深い謝意には偽りなどなかろうが、賢明な山中教授のことゆえ、その大仰な言葉の裏に、日本の基礎医学さらには基礎科学の実情に対する複雑な思いをそっと秘め込んでいる節がなくもないように感じられてしまうのだ。
(天才と崇め立ててしまう前に)
以前、この「時流遡航」で「危機に瀕する日本の高等教育」という記事を執筆した際にちょっとだけ触れたのだが、現在に至るまでの山中教授の道程は決して容易なものではなかった。ノーベル賞受賞が決まった瞬間から、その研究者は「天才」として崇められるのが常であるが、実際には「苦悩の人」であったり、「努力の人」であったり、「幸運の人」であったりすることが多い。例外もありはするけれども、「天才」という呼称は、ほとんどの場合、後づけ評価によるものだと言ってもよいくらいである。
既に報道されているように、神戸大学医学部卒業後、整形外科分野の臨床医となった山中氏は敏腕な医師ではなかったらしいが、重度の脊髄損傷患者を目にするうちに基礎医学研究分野の重要性を感じるようになった。そこで、基礎医学の研究者に転じることを決意し、そのための知識や技術を修得すべく大阪府立大学大学院医学研究科へと移った。そして、基礎医学の研究者としての高度なトレーニングを積むために米国のグラッドストーン研究所に留学した。同研究所ではのちのiPS細胞研究の基礎となる高度な遺伝子操作技術などを身につけるとともに、多機能性幹細胞の神秘的な機能などを知るところとなったが、この時点ではまだiPS細胞の開発を狙っていたわけではなかったようである。ただ、恵まれた環境のグラッドストーン研究所への留学と、数々の失敗の積み重ねをも当然のこととして受け入れるそこでの研鑽の日々がなければ、山中氏の今日の大成はなかったに違いない。目先の実利的成果のみを求めがちな現在の日本の研究環境と、潤沢な資金を供与されながらも将来の展開を大きく睨み、当面の実利性にはさして拘らない米国の基礎医学研究環境との決定的な相違に、山中氏は強い衝撃を受けてもいたようだ。
グラッドストーン研究所での留学を終えて帰国した山中氏を待っていたのは、相も変らぬ劣悪至極な日本の研究環境だった。日米の研究環境の差が想像していた以上に大きいことをあらためて痛感した同氏は、一時期、基礎医学研究の前途に絶望して酷いノイローゼ状態に陥り、臨床医への復帰を模索する有り様だったという。もともと実直な人柄のうえに、躁鬱症気味のところがあると自らも語る同氏のことだから、ほんの少しでもその後の状況が異なっていたら、今日の偉業達成はなかったかもしれない。山中氏にとって幸いだったのは、そんな折にたまたま奈良先端科学技術大学院の教員公募が行われたことだった。一縷の望みを託してそれに応募し、米国で身に着けたプレゼンテーション技術を最大限に駆使して臨んだ結果、奈良先端科学技術大学院側の選考責任者の慧眼に適うところとなり、99年、運良く助教授(現在の準教授)に採用された。
同大学院の研究環境は、米国のそれには比すべくもなかったものの、国内の基礎科学研究専門機関としては良好なほうであり、研究費なども相当額を供与されることになった。また、後々まで山中氏の研究を支えることになる優秀なスタッフ(当時の大学院生)にも恵まれ、チャレンジングなiPS細胞の基礎研究を本格的に進められるようになった。そして、その研究チームは、地道で気の遠くなりそうな試行錯誤の実験の数々を繰り返し、遂には胚性幹細胞同様の万能性細胞を生み出すために必要かつ十分な遺伝子を絞り込み、iPS細胞作製の基礎となる技術の確立に成功した。それはもう、「天才の成せる業」というよりは、「努力と執念、苦渋と苦悩との成せる業」といったほうがよかったかもしれない。
(実益重視の研究費供与は問題)
当然、すべての努力が徒労に終わる可能性もあったわけで、成功に至るまでの過程においては、「何が起こるのか?」とか、「どうしてそうなるのか?」とか言ったような問題意識が先行し、「何の役に立つのか?」と言った類の実利本位の思惑などは二次的なものに過ぎなかったはずなのだ。すべての科学分野について言えることだが、基礎科学研究とは元来そのようなものなのだ。ノーベル賞を山中教授と共同受賞したジョン・ガードン英ケンブリッジ大学教授は、62年に、「あらかじめ核を抜いた卵にオタマジャクシの細胞核を移植すると、受精卵同様に多機能性を持つようになり核が初期化する」ことを実証してみせた。それから50年を経た今日での受賞となったわけなのだが、その事実を発見した当時、その研究成果がすぐさま何かに役立つだろうなどとは考えもしなかったに相違ない。
奈良先端科学技術大学院でiPS細胞誕生に繋がる技術を開発した山中氏の研究の場合には、その業績が近い将来再生医療技術につながるのは確実とされた。そのため、ほどなく京都大学再生医科学研究所教授に招聘され、より恵まれた研究環境下において、06年にマウスによるiPS細胞の作製に成功、さらに、07年にヒトに関してもiPS細胞を生み出すことに成功した。実を言うと、日本科学技術振興機構などを通じて山中教授が何十億円にものぼる研究費を国から供与されるようになったのは、iPS細胞創出成功以降のことである。端的に言えば、「何のために役に立つか」ということ、すなわち、実利性を睨んだ応用研究への期待ゆえに研究資金が供与されるようになったわけで、京大への招聘以前の地道な基礎研究に資金が供与されたのではない。そのような事情を考慮してみると、「日本という国が受賞した賞」という山中教授の言葉を額面通り受け取るわけにはいかないのだ。