この時代、パソコンは決して安いものではなかった。現在のパソコンに較べればオモチャ以下の性能しかないような機種でさえも40万円前後はした頃のことだから、貧乏研究者の身でそれを何台も持つなど本来は不可能なことだった。だが、幸いと言うべきか、仕事上の関係もあって、私の場合は、IT関連企業各社から事実上は無償供与に近いかたちでマシンを貸与されていたので、自室には常時3~4台のパソコンが並べ置かれていた。
もっとも、この当時、日本の通信環境は全く未整備だったので、パソコンのワープロ機能を用いて文章などを書いたとしても、そのデータを回線経由で送信することなど不可能で、原稿はすべて手渡しだった。そもそも、パソコン用の初期日本語ワープロソフトの性能は甚だ低く、不備なところは手書きで補うような有り様で、現在のように必要な図版や図表までを効率よく作成するなど夢のまた夢という状況だった。今更そんなことなど信じてもらえないかもしれないが、この時期のコンピュータ関連の元原稿は、MICRO誌や科学朝日のものを含めてほとんどが手書きだったものである。手書き原稿からワープロ書き原稿への完全移行が実現したのはもう少し後のことである。
(LOGO関係書籍の執筆刊行)
人工知能用言語LISPや数理科学研究用言語PASCALを母体にした教育言語LOGOに関しては、80年代初めから90年代半ばにかけての15年間ほどの短期ではあったが、国内でもそれなりのブームがあった。パソコンに関しては後発メーカーだったSONYは、84年にSMC777という同社初のパソコンを発売した。宣伝用イメージガールとして松田聖子を登用したこのパソコンは、先行各社のパソコンに比べて総合的に性能が劣っていたため、残念ながらすぐに市場から姿を消してしまったが、このパソコンにもLOGO言語が搭載され、しかもそれを全面に押し出す販売戦略が採られていた。
そのため、同社傘下のCBS・ソニーから依頼を受け、同機種の発売に合わせて「LOGOハンドブック~ことば遊びとリスト処理」を執筆することになった。LISPによるプログラミングの中枢概念「再帰機能」、そのなかでも「埋め込み型再帰機能」を極力わかりやすく解説したこの初級者向け著作は、中京大学教授を経て現在は東京大学教育学部教授になっている三宅なほみさんらとの共著だったが、意外なことに、コンピュータ技術者たちにもよく読まれたらしい。PC開発担当責任者との打ち合わせのため、当時大崎にあったSONY本社にも何度か足を運んだが、今となってはそれも懐かしい想い出だ。
この著作中の「ことば遊び」のところでは谷川俊太郎さんの「ことばあそびうた」という作品を借用させてもらったのだが、そのことを知ってコンピュータに強い関心を抱いた谷川さんが、その旺盛な好奇心に煽り導かれるままに執筆編集の作業現場を訪ねてくださったことなどもあった。一世を風靡したこの大詩人が、使い古しの頭陀袋を肩にかけ、一介の放浪者とも紛うような風体でひょっこりと姿を見せてくださった時の驚きは大変なものだった。谷川さんの詩「二十億光年の孤独」などを愛読していた私などは、その自由きままな姿を拝しながら、真の詩人のなんたるかを痛感させられたりもしたものである。
当時のSONY上層部の人々の思考がきわめて柔軟だったことも強く印象に残っている。私が関係したある主要部局のメンバーの中に豊かな独創力と並外れた実践力とを兼ね備えた若者がいたが、かつてその人物は、複数の暴走族グループを統括する名うてのリーダーだったのだという。バイク・ツーリングを趣味にしていた当該部局長が旅先でたまたま暴走族グループの大集会の場に行き合わせ、そこで彼と知り合ったのだそうだ。その優れたリーダーシップや潜在能力に感銘した部局長は、ほどなく彼をヘッドハンティングし、SONYの社員にしてしまったのだという。同社の懐の深さを物語るエピソードのひとつだが、他にもこちらの想像を超えた風変わりなキャリアを持つ若手社員が複数いて、随分と活躍していたことを今でもよく憶えている。
それからしばらくして、今度は私がリーダー役を引き受けていたソフトウエア開発チームの数人のメンバーとの共同執筆で「LOGOトレーニングブック」(技術評論社)を出版した。こちらのほうは、様々なグラフィック理論やゲームソフト制作技術、さらには数理科学分野のシミュレーションソフトのプログラミングテクニックを紹介したもので、「LOGOハンドブック」に較べればずっと高度な内容を盛り込んだ著作だったのだが、幸い、新たなこの著作のほうも一時期にあっては随分と好評を博したものである。
(シーモア・パパートの来日)
85年11月末にはLOGO言語の開発者であるシーモア・パパートMIT教授が来日し、その折に、浅草ビューホテルにおいてコンピュータ教育をテーマにしたシンポジウムが開催された。パパート教授のほか、当時東大教育学部長だった東洋教授などがパネリストを務めたが、その頃に隆盛を極めていたアスキー社が主催者なっていたこともあって大変な盛況ぶりであった。各大学の教育関係者ばかりでなく、コンピュータ・メーカー各社の責任者なども多数参加しており、なかなかに有意義なシンポジウムだった。そのシンポジウムにおいて提唱あるいは紹介されたLOGO言語の有意性や重要性そのものについては、既に私自身は十分認識していたので、特に異論を懐くようなことはなかった。
ただ、コンピュータ教育に対するパパートの理念と現実の教育現場の状況とのギャップ、日本の教育制度との整合性の問題、教育学者のスタンスの取り方、LOGO教育担当教員や専従インストラクター養成の必要性、メーカー各社のLOGO言語やパソコン仕様の相違への対応の仕方などについては、なお慎重な検討を要する点が多いように思われてならなかった。そこで翌86年のPCWORLD(パソコンワールド)誌6月号に「LOGO教育に関する若干の疑問」と題する原稿用紙50枚ほどのかなり厳しい論考を掲載した。
その中では、パパートがLOGO言語開発のベースにした認知心理学者ピジェの学習理論の再考察から出発して各種問題点を具体的に洗い出してみた。またその一方で、自ら実際にパソコンに向かい論理的にプログラミングを研究したりすることなどなく、単なる先物取りの精神だけをギラつかせ、語学力のみを武器に海外の研究業績の上澄みだけを巧みに掬い取り、それを国内向けに紹介ないしは解説するだけでコンピュータ教育のスペシャトを自称している教育学者らを厳しく批判した。そのため、一部の関係者の間ではかなりの物議を醸し出しもしたようだが、幸いにも、全体的には真っ当な主張だと評価され、各方面からの信頼を得るところとなった。