(科学者に求められる言語表現能力)
もう7年ほど前の話であるが、自然科学研究機構・岡崎コンファレンスセンターで開かれた日本学術会議第三学会において拙いながらも講演を依頼されたことがあった。遠の昔に学術研究の場を離れた一介の雑文ライターの身に過ぎなかったのではあるが、主催者側からの再三の要請もあって、日本の大学や学術界の抱える諸問題について私見を述べさせてもらうことになったのだった。当時の野依良治・理化学研所理事長、中村宏樹・分子科学研所所長、北澤宏一・科学技術振興機構理事長、第三学術会議会長の岩澤康裕東大教授、同会議理事の成田吉徳九大教授以下、錚々たる現役の学術学研究者80名ほどを前にした講演であったのだが、無所属のフリーランスの立場をよいことに、微力で愚鈍な身をも顧みず図々しく開き直り、忌憚のない発言をさせてもらった。敢えてそんな暴挙に打って出たのは、ひとつには痩せても枯れてもフリーランス魂だけは大切にしようという強い思いがあったからである。
ちなみに、日本では、「フリーランス」という言葉は、当世巷で広く用いられている「フリーター」なる言い回しとほぼ同義だと考えられている。もっとも我が国の場合、それら双方の立場の人間の生活実態にはそう大きな違いはないので、それは仕方のないことではあるのだが、実を言うと、「フリーランス」という言葉は欧米社会においては、我が国で用いられている「フリーター」という表現とは些か異なる意味合いを持っている。それゆえ「フリーランス」と称される人々はそれなりの敬意をもって処遇されるのだ。
「フリーランス(freelance)」という言葉の原意は、その英語表記の直訳が表す通り「自由の槍」という意味である。元々それは、中世ヨーロッパにおける騎士道隆盛の時代に、特定の王侯貴族の傘下に属することなく、槍一本、すなわち己の力と信念のみを頼りに是々非々の立場で世を渡った孤高の騎士たちの姿を指す言葉だったのだ。そして、時代が下るにつれて、何時しかそれは特定の組織に属さずに、自立して自身の意思と技能とを基に専門の仕事をする人、たとえば作家や無専属の俳優や歌手、自由契約の記者や諸々の芸術家などを意味するようになっていった。日本風に言えば、包丁一本のみを頼りに料理の世界を渡り歩く実力派の料理職人みたいなものである。それゆえ、欧米ではフリーランスと呼ばれる人々は十分に敬意を払われてきたのだった。
なにやら偉そうなことを書いてしまったが、私自身はというと、正直なところ、欧米で用いられるような意味でのフリーランスには程遠い存在で、たとえ槍を手にしたとしてもその重さに耐えかねヨタヨタ歩きするのが関の山の人間である。どんなに頑張ってみても、ミゲル・デ・セルバンテスの名作に登場するかのドン・キホーテの真似事程度をするのが精一杯で、しかもそのドン・キホーテにさえも到底及びそうにはない。ただ、己の分際も弁えずに、愚かさ丸出しでドンキホーテなみに巨大な風車に挑むというお笑いものの開き直り行為も、生涯に一度くらいは許されていいのではないかと思ったのだった。
(パウロ的存在の必要性を説く)
その講演で私が訴えたことのひとつは、学術研究者、とくに最先端科学分野の研究者にとっての高い言語表現能力の重要性、なかでも的確な文章表現能力の必要性であった。大学教員をはじめとする欧米の学術研究者に求められる共通の必須条件は、理系文系のいずれであるかを問わず、適切かつ明快な言語や文章を必要に応じて自在に駆使できることである。だが、日本の科学研究者の場合には総じてそんな言語能力が不足しているように感じられてならなかったからである。
もちろん、数学者の岡潔、物理学者の湯川秀樹、朝永信一郎、中谷宇吉郎といったかつての著名な理数系研究者に見るように、素晴らしい言語表現能力を持ち具えた研究者も少なくはなかった。それらの先達の諸論考やエッセイなどには、筆者自身若い頃、大いに啓発されたものである。近年の科学分野研究者には、厳しい研究環境下で細分化された専門領域での探究に日夜追い立てられるあまり、日常的な言語能力の向上に割くべき時間も労力もほとんどないというやむを得ない事情もあるのだろう。しかし、だからと言って、科学系学術研究者の日常的な意味での言語能力が乏しくなってしまってよいわけがない。
最先端科学領域の研究者というものは、一般人には理解困難な数学、物理、化学、生物などの諸専門用語、さらには数式に象徴される特殊な記号言語を駆使して研究を進めるわけで、それはむろん不可欠な行為ではあるが、その一方で、社会に対して自らの研究内容や研究成果を解り易く説明する責務を負っている。ほとんどの研究者が研究経費の負担を社会に依存している事実や、優れた研究を社会に広くアピールし各方面からの支援を請うことの必要性を考えれば、それは当然のことである。将来を背負う小中学生や高校生、大学生らの若者に自らの研究の核心部を的確に紹介し、彼らの関心を高め育てて多くの人材養成に貢献するのも大切なことなのだ。既に述べてきたことではあるが、私がかつて関わっていた数学の専門研究においてさえもそのことは避けて通れない。
ただ、たとえそうではあっても、実際問題として、それぞれの研究に勤しむ我が国の科学者の全体的な言語能力が直ちに向上することなどは望むべくもない。現在でも高い言語力や文章力を具えた先端科学の研究者もそれなりに存在することは事実だが、その数は必ずしも多くはない。
また、一方には、国際間で日々熾烈な競争の続く最先端研究に専念する現役研究者に今更そんなことを要求するなど論外だし、現実論として考えると、そもそもそんな行為は失礼に過ぎるという見解などもあったりする。確かに、一刻一秒を争って重要な研究に取り組む研究者に、リアルタイムでその具体的内容について素人にも解り易い説明を求めるなど無理だと思われるケースも多々あるに違いない。
そこで私は、クリスチャンでもない身なのだが、先端科学研究者をキリスト教の創始者イエスに、先端科学の優れた解説広報の担当者を偉大な伝道師パウロに喩え、我が国におけるパウロ的役割の重要性とそのような人材育成の肝要さを訴えかけた。日本には優れたキリストは数多くいるが、その教理すなわち研究内容を深く理解し、易しい言葉でその独創性や優れた意義を国内の大衆や国際社会に向かって説きかける伝道師のパウロ役が決定的に不足していると指摘したのだった。キリストがパウロの役も同時にこなせるなら問題はないが、そうでないとすれば何らかの対策を講じなければならないことは明らかだった。
独創的な科学研究世界でのパウロ役というと、直ぐに思い浮かぶのはフリーランスの一種であるサイエンスライターである。しかし、国内においては優れたサイエンスライターが少ないうえにその生活には甚だ厳しいものがあるのを私自身は熟知していた。