時流遡航

《時流遡航291》日々諸事遊考 (51)(2022,12,01)

(騙し騙されるということの本質やその実態を考える ) 
 人はなぜ他者を騙したり他者から騙されたりするのだろう。現在国内外で起こっている洗脳や虚偽情報絡みの問題の深刻さを認識するにつけても、そんな思いが沸々と湧き上がってくる。自分は絶対人を騙したり騙されたりしないと思っている人も少なくないだろうが、世の現実はそれほど甘いものではない。人生行路の晩期を迎えた人々が自らの過去の歩みを回顧してみる場合、「唯の一度も他者を騙したり、他者から一度も騙されたりしたことはない」と断言できる人などいるものだろうか……。この種の問題の本質を考究するに際しては、まずもって、「騙す」とか「騙されない」とかいう事態の判断はいったい何を基準にして下されるものなのかを、冷静沈着に分析してみる必要があるだろう。
 疑似生命体のウイルスや菌類のような原初的生命体というものは、生命というその宿命的な機能を備え持つ身であるがゆえに、絶対的に自己存続を最優先する動きを見せる。そして、それら原初的生命体が長大な時間をかけ、変遷のかぎりを尽くして進化した高等生物の類に至ると、その宿命的な機能は「生存本能」と称されるものに変り、当該生物の体内深くに包有されるようになる。原初的生命体では剥き出しになっていた自己保存機能が、高等生物に至る過程で徐々に抑制され、程よく制御されたかたちで維持されるようになるからだ。 だが、生命体であるかぎり、その機能を維持し自己保存を図るためには、動植物の如何を問わず、他の生命体のエネルギーを少なからず自己の体内に取り込まざるをえない。しかも、その傾向は高等生物になればなるほど顕著かつ露骨になっていく。この地球上で最も残虐な生物は人間だと言われるのも、そのような理由あってのことである。
 無論、個々の生命体は本来他者から分離独立したものではあるが、同種同族のもの、さらには機能的に類似したもの同士は、個としての自己の存在が脅かされないかぎり自主的に共生し合い、厳しい自然環境と対峙しながら少しでも生き長らえようと試みる。そのような動向は高等生物におけるほどに際立っているように思われてならない。そして、そんな流れの最先端に位置するのが、ほかならぬ人間社会というわけなのである。だが、個々の人間の内有する生存本能の抑制力や根本的価値観の様態には大小の差違が存在するから、たとえ互いに共生しようという意思があったとしても、成り行き任せに放置しておいたら、遠の昔に人間社会は悲惨な状況に陥ってしまっていたことだろう。
 そこで、そんな事態を回避すべくして、過去の諸経験に基づき誰からともなく湧き上がったり、指導力や行動力のある一部の人物らの提唱のもとに導出されたりしたのが、原始的な社会ルールであったと言えよう。人類の数がまだ少なかった初期の時代には、それらの社会ルールは家族や親族、部族の中においてのみ通用していたが、人類の増大とその活動領域の発展に伴い、同一ルールの適用範囲は拡大の一途を辿った。そして、諸々のルールはやがて倫理と呼ばれる「社会生活において人の守るべき規範概念」へと昇華し、さらには、各種宗教や法律、制度の誕生へと繋がっていった。
だが、一方では、その一連の推移の過程を通じて倫理概念は抽象化の一途を辿り、千差万別な個々の人間の生活実態、すなわち個々人の日々の具体的な生活様態や生活理念とは結び付の薄い一面を持たざるをえなくなっていった。換言すれば、折々の社会的問題に適応すべく、具象と抽象の狭間を永遠にさ迷わざるをえない人間の宿命を痛感させられることになったのだ。絶対解のないそんな状況の下にあっては、自主的な思考判断を放棄し、宗教、社会規範、法律、制度の類や、それらを統括支配する指導者らの意向に無条件で従う者が続出する。また、その一方では、社会状況に起因する無力感や絶望感のゆえに、抑制されていた根元的な生存本能を解き放ち、諸々の重犯罪行為に及ぶ者が現われる。
(欺瞞横行は人間社会の宿命か)
 基本的倫理観、法律、制度といったものに反する行動を密かにとり、他者から不当な利益を得たり、その人物の心理を意図的に制御したりするのが人を騙す行為である。またその逆に、そうとは知らずに相手の意図に取り込まれるのが騙されるという行為である。しかし、その判断基準となる倫理観や法律、制度の類は絶対的なものではなく、時代とともに変容するし、国々や国内諸地域、さたには諸々の組織や集団の間でも異なり、それらの解釈についても個々人の立場によって少なからぬ相違が生じる。そんな現実の下にあっては、悪意はなくても人を騙したり騙されたりすることも起こりうる。
ましてやそれら判断基準を意図的に悪用する巧知に長けた人間や、判断基準そのものを自らに都合のよいように解釈したり改変したりするような専制者が現われたら、騙されないでいることのほうが難しい。たとえ是々非々で我が道を行く独立独歩の孤高の人物が存在したとしても、そんな状況の下にあっては、変人と見做されたり、逆に詐欺師だと見なされたりし、世間の大多数から敬遠されてしまうのが落ちだろう。
民主主義の仮面をかぶった自己利益絶対優先の資本主義界は、窮極的には騙し合いの世界であり、独裁者がもっともらしい主義主張を掲げ国民を支配する専制国家は、美言に包まれた欺瞞の塊そのものだと言ってよい。そんな現世の実態の下にあっては、救い難い苦難の底に突き落とされる人々や、遣り場のない深刻な罪悪感に苛まれる人々が数多く現われる。今世界のあちこちで起こっている諸々の差別や貧困、戦乱に伴う惨禍などを目にすれば、その実情は一目瞭然に違いない。ただ、それは人間社会本来の姿ではあるのだろう。
 そんなとき、疲労困憊し、絶望に近い状況に陥っている人々のもとにそっと忍び寄り、その心を優しく癒し包み込むようにして帰依を迫るのが諸々の宗教にほかならない。古来、倫理の世界の中核を成してきた宗教の存在そのものはけっして悪いものではない。特定の教義の受諾を絶対的前提条件とする宗教には、信徒以外の者の目からすれば違和感も多々あるが、過去・現在・未来の時空や、現世の俗事を超越した世界観を秘め持つだけに、生きるという行為に疲れ果てた人々が救いを求めるのも当然のことだろう。元々相互依存性の強い社会動物である人類は、終始一貫して単独で生き抜くことなどできはしない。
 だがそうは言っても、慈悲深い女神や天使、さらには伝説の神々の姿をさりげなく装い、しかも当初はその姿さえも包み隠して巧みに人心の奥底にまで忍び入ってくる新興宗教の類には十分な警戒が必要だろう。それと気がついたときには、もう身動きがとれなくなってしまい、教祖やその取り巻き衆の操り人形と化してしまうからである。昨今の日本の政治家らの無様な姿などはその典型だと言ってよい。そのような事態に対処するには個々人の自我観の確立を急ぐしかないが、哲学が軽視される昨今ではそれも容易ではないだろう。

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