時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (10)(2020,02,15)

(離島での実生活と結び付けながら仰ぎ見た星月夜 )
小学生時代のことですが、当時の村の有線ラジオから流れ出るNHK第一放送の子ども番組にいつも耳を傾けていたものです。そして、そんな番組に出演中の都会育ちの子どもらが、オリオン座や白鳥座、蠍座などの一等星の名前を問われ、即座に、リゲル、べテルギウス、デネブ、アンタ―レスなどと答えたりするのを聴いたりもすると、自分とは違って彼らはやっぱり凄いなあと、その知識の広さにひたすら感嘆したものでした。
離島生活を送るなかで、月星の動きやそれらの澄んだ輝きを日々身近なものとして眺め育った身ではありましたので、一連の夜空の様相の変化を実生活と結び付けて考える慣習だけはおのずと身につけていました。もちろん、月の形状や様々な星々の明度、色調の違いなどには子どもながらに関心がありましたし、折々目にする流星群の光芒や彗星の異様な輝きなどには魅惑されもしたものですが、諸々の星座の名前や詳細な配置、個々の星座中の一等星の名称などについては熟知していませんでした。当時知っていた星の呼称ときたら、北極星や北斗七星、金星、火星、木星くらいのものでした。夏の夜空高くに煌めく銀河や、それを挟んで対峙する織姫と彦星の名前くらいは知っていましたが、その天文学上の名称がギャラクシー、べガ、アルタイルであるなどとは知る由もありませんでした。
 しかし、北極星を中心にして徐々に回転する北斗七星の位置や銀河の帯の遷移状況からその時々の季節や大まかな月日、時刻といったものを読み取ったりすることはできました。田舎ならではの共同生活を送る中で大人たちからそれとなく教わり、そんな手法を自然かつ体感的に身につけていたからです。現代とは違って腕時計を持っている人などはほとんどおらず、掛時計や置時計の類を備え持っていない家庭もまだ随分とあった頃のことですから、それもまた必然の生活の知恵ではあったのでしょう。村の高台には集落一帯に時刻を知らせるための手回しのサイレンが設置されており、早朝、正午、夕刻の1日3回、村役場の係員によってそれが高らかに鳴り響かされていたものです。
また、多くの家庭には太陽暦と太陰暦とが併記されたカレンダーが掛けられてもいましたが、漁業や農業に携わる大人たちが太陽暦ばかりでなく太陰暦のほうにも強い関心を示すのを幾度となく目にするうちに、それが月の形やその動きと深い関係があり、生活を支える農業や漁業にとっても極めて重要な意義をもつらしいことを知って、子どもながらに深い感銘を覚えたりしたものでした。そして、そんな育ちのゆえに、月の形やその位置を見ただけで、大潮小潮などというその日の潮の干満の程度やその時刻の潮の寄せ引きの様子を判断できるようにもなりました。老齢の身となり都会の片隅でささやかに余生を送るようになった今でも、夜の散歩の折などに月影を目にすると、海の干満の様子が理屈抜きで瞬時に脳裏に浮かんでくるのは、そんな原風景をもつからなのかもしれません。
高校生になって地学を学ぶようになった段階で、月星の動きに関する様々な理論をとくに違和感を抱くこともなく自然と身につけることができたのは、多分、幼い時代のそんな生活体験があったからなのでしょう。その意味では、一時的には知識上の遅れがありはしたものの、長い目で見れば、貧しい離島で育ちの身にもそれなりの利点はあったというわけなのでした。なんとも意外なことですが、やはり高校生になってからのこと、国語の時間などに様々な昔の和歌や随筆類と接するようになった際、そこに歌われたり描かれたりしている月星に関わる光景を即座に想い浮かべながらその世界に無理なく馴染むことができたのも、そんな背景があったからかもしれません。学生時代には数理科学的な分野を専攻していたにも拘らず下手な短歌の真似事をするようになり、以来、それを、多様な出来事に満ちみちた生の旅路の備忘録代わりに用いながら現在に至っているのも、今にして思えばそのお蔭だと言ってよいでしょう。そう考えてみると、成長期に体験した離島での貧乏暮らしも捨てたものではなかったのです。
なお、いささか余談にはなりますが、中学3年生の頃などには、深い宵闇に包まれた岬の先端に佇んで遥かな天空に瞬く明星を眺めたりしたものです。そして、何時の日か廻り合うことになるかもしれない運命の人もまた、この広い星空の下の何処かで同じ星を見つめているに違いないなどという空想に耽ったこともありました。ロマンティックな空想力――というより妄想力にだけは幾分とも磨きをかけることができたというわけなのです。今思えば、それもまた辺鄙な離島生活ゆえの恩恵だったと言えるのかもしれません。
(衛生学上の問題点はあったが)
 当時はそんなことなど全く気にかけていませんでしたが、一方では衛生学的な観点からすると問題点が多々あったのも事実です。島にはパン屋が無かったため、食用パンの類などは船で本土から運ばれてきて村に数軒しかない雑貨店で売られていました。ところがその売り物のパンは日々取り換えられるのではなく、同じパンが相当長い期間店内に置かれていたものです。もちろん冷蔵保管設備などない時代のことですから、夏場などの高温多湿な時期などでも古くなったパンがそのまま売られていたものです。現代のように賞味期限などが厳しく定められたりしておらず、そのパンを買って食べるかどうかは村人の自己判断に委ねられてもいたのです。たまには私自身もそんなパンを買って食べたものですが、アンパンやコッペパンなどの場合には表面の一部に青カビが生えているようなこともありました。それでも、当時のパンは島育ちの者にとっては一種の高級食品でしたから、指先で適当にその青カビを取り除きながら、何の躊躇いもなく美味しく食したものでした。そんな状況が日常化していたせいで身体が自然に抵抗力を具えるようになっていたからでしょうか、幸いにもそれによって健康を害するようなことはありませんでした。現在なら大きな社会問題になってしまうところなのですが……。
 日常的な飲用水もまた戸外の井戸から汲んできて屋内の甕に溜めてあるものを用いていました。ところが釣瓶で水を汲み上げるその外井戸には十分な覆いなどもなく、雨が降ると雨水の一部が中に流れ込んだり、諸々の昆虫や落ち葉の類が直接井戸の水中に落ちたりするのは日常茶飯事だったのです。虫類を除去するため、わざと鮒などを中に入れた井戸などもあったものです。井戸の底までを清掃する井戸水替えという共同作業が何年かに一度行われたりはしていましたが、水質の管理はそれくらいのものでした。ただ、そんな生活環境下で育った所為でしょうか、いまだに胃腸は結構丈夫で日々の雑多な食生活にも耐え抜いてきています。医薬情報の専門誌でこのようなことを書くと、衛生概念無視も甚だしいとお叱りを被りそうなのですが、事実は事実として受け止めて戴ければ幸いです。

カテゴリー 時流遡航. Bookmark the permalink.