時流遡航

《時流遡航279》日々諸事遊考 (39)(2022,06,01)

(プーチンとゼレンスキー、両大統領の心中を覗く)
 ますます混乱を深めゆくウクライナ情勢を目にするにつけても、平和の本質とはいったい如何なるものなのだろうかと考え込まざるを得ません。そんな不穏な国際情勢に便乗した軍備増強論などに異議を唱えたりすると、防衛強化論者筋からは、すぐさま「それは平和ボケした愚か者の主張に過ぎない」などという罵声を浴びせかけられたりもする有様です。目下の国際情勢は極度に緊迫したものだけに、そんな批判を前にすると、常々強く平和を願うような身ではあっても、ついつい一歩引き下がって自らのあるべき姿を再考してみようという気分にもさせられます。またそんな折には、「平和ボケしていない」と自称する人々の思考の背景にも想像を廻らせてみたくなってくるのです。何はともあれ、そんな「平和ボケしていない人物」の絶対的象徴とでも言うべき存在は、善くも悪しくも今全世界から注目を浴びているプーチン・ロシア大統領に他ならないわけですから……。
 平和ボケしていない人物の心中深くには、他国、他組織、他家族、そして窮極的には身内をも含めた自分以外の存在は一切信じるに値しないという意識があるに違いありません。そんな意識や信念が芽生え育つまでの過程には人それぞれに違いがあり、一概にその背景を論じるわけにはいきませんが、底知れぬ猜疑(さいぎ)心(しん)や強度の被害妄想の傾向などが見られることは否定のしようがないでしょう。まして、生死の狭間(はざま)に幾度となく足を踏み入れ、嘘と裏切と巧みな転身とが必然のスパイの世界に自らを委ね、自己保全や所属機関、所属国家への絶対忠誠の名目のもと、数々の人間を殺戮した経験をもつ身とあれば、それは逃れようのない代償、あるいは不可避な運命とでも言うべきものなのでしょう。
通常人なら信頼のおける優れた精神科医にでもかかり、たとえ一時的ではあろうとも心身の安寧(あんねい)を求めることもできるのでしょうが、プーチン大統領レベルの専制的地位の人物ともなると最早そうはいきません。上辺だけは信頼できそうに見えても、所詮その奥底の本心など知る術もない精神科医らに安易に身を委ねるわけにもいかないでしょう。たとえ相手に他意がなかったとしても、その医師を介して、自らの身体的状況や内面的葛藤(かっとう)、心理的動揺のほどなどが外部へと伝わる恐れがあるからです。医師一人を近づけるにしても、その身辺を洗いざらいに調べまくり、そのうえでようやく直に接触することになるわけで、対面後も本心を隠しながら、とことん偽の善人を演じるしかなくなってしまうでしょう。
かつて安倍晋三元首相は、プーチン大統領と「ウラジミール」、「シンゾウ」とファーストネームで呼び合う関係を築いて27回もの会談を実現し、多大な外交成果を挙げたなどと喧伝されたものです。しかし、したたかこのうえないプーチン大統領のほうは、胸の奥では薄笑いを浮かべながらペロリと舌を出していたに違いありません。首相時代、国会答弁で数々の嘘をついたと追求されても厚顔一徹な振舞いを演じ通した安倍氏ですが、両者の会談に際し、にこやかそのものの微笑を浮かべながらプーチン氏がついた嘘のレベルは、首相のそれとは比較にならぬほどに巧みなものだったのでしょう。
その結果が、一時的には期待を込めてもっともらしく報じられ、やがて雲散霧消した北方領2島返還ベースの日露講和条約締結交渉話だったというわけなのですから。外交の舞台上で心にもない「平和ボケの舞」を披露してみせるプーチン大統領の超絶技巧の前に、それが持ち前であったはずの安倍元首相の「非平和ボケの舞」のほうは瞬時にして何処かへと吹き飛んでしまったようなのです。
(ウクライナ大統領もなかなか)
 一方、いまや西側諸国においては英雄視さえもされているゼレンスキー・ウクライナ大統領ですが、この人物もまた、生来「平和ボケが嫌いない人物」の代表格の一人であることに間違いはありません。しかも、「平和ボケした人間」の心奥に眠る生存本能や闘争本能を覚醒(かくせい)させ、自らの味方にしてしまうその能力は大変なもののようです。「平和ボケした人間」、換言すれば「理性の働きで自己中心的生存本能や闘争本能を程よく抑制している人間」の理性の囲いをさりげなく除去し、粗野な本能が激しく蠢(うごめ)くように仕向ける弁舌力や演技力には、さすがのプーチン氏も顔負けだと言うほかないでしょう。
このところ頻繁にテレビに登場するその姿を想い浮かべながら、戦闘においてウクライナ側がロシア軍への反撃に成功したという報道に接したりすると、無意識のうちに己の心中に、それはよかったという安堵の気持ちが何時しか湧き上がってきたりもします。そしてまた、ゼレンスキー氏の軍事支援要請に対して、西側諸国がウクライナへの大量武器供与に踏み切る様子を何の疑いもなく当然のものとして受け入れ、ロシア憎しの心情へと駆り立てられていきます。そこまでくると、ウクライナ寄りの報道には嘘や欺瞞(ぎまん)はもちろん、一片の演出や編集さえもないと信じ込みたくもなりますから、話はなんとも厄介です。
無意識かつ間接的ではあるにしろウクライナの攻勢を支持するということは、平和ボケした人間でさえも暗黙のうちに殺戮(さつりく)を肯定する立場へと陥っていることなるわけですから、最早、我関せずの第三者的傍観者などではあり得ません。たとえそれが正義感のゆえだと弁明してみたところで、詰まるところは殺戮行為を容認していることに他ならないのです。裏を返せば、ロシア側社会の人々もほぼ同様の精神思考の過程を経てプーチン大統領支持へと至っているわけですから、我々西側社会の人間が「彼らは何でこんな愚かな行為を肯定するのか」と相手側の動向を批判してみても少しも埒はあきません。そう考えてみると、人間という生命体とはつくづく悲しむべきものだと感じざるを得ないのです。
 集団心理というものは、一旦それが機能し始めると、たとえ悲劇にも繋がる負の要素を秘めたものであっても、その動向を制御することは容易ではありません。何らかの理由で多数の人間が社会的に一体化しなければならない事態下において働くその特異な心理は、個々人の冷静な意思や倫理意識を超越して機能するため、異常に昂揚(こうよう)したり暴走したりすることが少なくないのです。それが単独で、しかも一定領域内に留まるうちはまだよいのですが、膨張拡大を続けた挙句に他の集団心理と対峙することになると、事態は容易ならざる方向へと展開していってしまいます。
 双方の集団心理が似たような傾向をもつのなら、合体融合したり一方が他方を吸収したりするからまだよいのですが、相互に異質な集団である場合には存続を賭けた激しい対立や衝突が起こります。各集団に極めて理性的な思考が内在していたとしても、最早その抑制機能は何の役にも立ちません。大量殺戮や大量破壊が窮極にまで進むことによって病的な集団心理が冷却され、地獄の底から壮大な平和ボケの精神が再生されるまで、愚かな人類は悲劇に甘んじるしかないのです。悲劇の主人公気取りの体制指導者を崇(あが)めながら……。

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