(ホワイトヘッドの著書の翻訳文が抱える問題 )
「思考の諸様態」という和訳書の翻訳文の問題点について詳しく述べる前に、その原作者、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861~1947)の人物像を少しばかり紹介しておきましょう。元々はトポロジー(位相幾何学)を専攻する英国ケンブリッジ大学の数学者だったホワイトヘッドは、同じくケンブリッジ大学の若手数学者だった後輩のバートランド・ラッセルと共同研究をするようになり、やがて二人は数理哲学分野に専攻を転じました。そして、階層理論(タイプ理論)などを論じた基礎論理学上の高名な論著「数学原理(プリンキピア・マセマティカ)」を世に送り出したのでした。
ラッセルは「追憶の肖像(Portraits from Memory)」という回想録の中で、「それまで数学に見るような明晰さや明証性こそが世界の本質だとひたすら信じていた若き日の自分に、この世には絶対不変の真理や原理など何一つ存在していないと教え諭してくれたのはホワイトヘッドだった」という趣旨のことを述べ語っています。また、「ホワイトヘッドは、当時から大変な読書家で、諸々の東洋思想についての書物をベッドブックにしていたものだ」とも書き残しています。「数学原理」の内容は、数学や基礎論理学の根底概念に絶対不変で疑う余地のないものなど皆無だと論じたものですから、ラッセルにとってホワイトヘッドの存在が如何に大きかったが偲ばれるというものでしょう。
その後二人は様々な事情でケンブリッジ大学を離れ、別々の道を歩むことになっていきました。バートランド・ラッセルのほうはやがて在野の哲学者となって英国内で執筆活動や諸々の社会運動に専念し、晩年は「イギリスの良心」と讃えられる存在になっていきます。いっぽうのホワイトヘッドは米国に渡り、ハーバード大学などの哲学科教授として数々の名講義を行い、世界にその名を高めていくことになりました。ホワイトヘッドによる社会哲学分野の主著としては、「過程と実在」などが世に広く知られています。
ホワイトヘッド著作集第13巻の「Modes of Thought(思考の諸様態)」は、ハーバード大学退職後に米国内の幾つかの大学で行った特別講義の内容を一冊の著書に纏めたもので、過去のホワイトヘッド自身の研究業績やその思想の要点を総括するとともに、未来に向かって哲学の意義とその重要性、さらにはそれらに付随する問題点を提示する内容になっています。むろん、難しい数式表現等は一切登場せず、その講義中で用いられている概念の定義などが慎重かつ丁寧に説明されたうえで、筆者の深く鋭い思想や理念が論述されていきます。たとえば、「重要性」の問題について述べた冒頭の第一講などでは、通常誰もが自明のこととして用いている「重要性」という言葉の概念そのものを慎重に定義することから始まり、あとに続く論考の展開に備えています。それは、「すべては定義に始まり定義に終わる」という言葉で常に概念の根元まで遡って物事を考えることの重要性を説き促し、「知的観念の冒険」という表現で人間精神の本質的なありかたを示唆したホワイトヘッドらしい対応だったと言えるでしょう。
その原著の記述には相当に息の長い文体が用いられており、しかも一語一語に深い意味が託されていますから、その論旨を読み取るのが容易でないことだけは確かです。ですから、それを翻訳するとなると、その原文を読みながら、ホワイトヘッドその人になったつもりで思考を廻らし、まずは逐語訳に努め、さらにそれをもとにして自然な日本語として通じる意訳を完成させなければなりません。ただ、この著書は、現代にもそして未来の世界にも通じる叡智や啓発的な考察に富んだ内容を具え持っていますので、欧米では自然科学・社会科学の両分野の学生にとっての必読書となっており、我が国にあってもかつては社会科学の重要書籍に指定されていたことがあるのです。
(意味不明な翻訳文の具体例は)
前置きが長くなってしまいましたが、ここで話の本題に立ち返ることにしてみましょう。1980年に刊行されたばかりのホワイトヘッドの著作の翻訳書「思考の諸様態」を少しばかり読んだだけで頭がくらくらしてきたと述べましたが、それは次の一文に象徴されるような文章が、第一講部だけをとってみても驚くほどの数含まれていたからなのです。
「事態にたいして注意を集中するということは、不毛の最たるものである。そのような勝利へのいかなる接近も、逃亡者だとか、修道院にたてこもる徳人だとかを学ぶのに利用することであって、それは宇宙を、個的経験にそのインパクトを与えるという点から解明するような、そういった本質的関係に重点をおくまいとするものである。」(ホワイトヘッド著作集第13巻・「思考の諸様態」の32ページより引用)。
この文章は、「重要性」という概念の定義や、歴史的な視点から見たその意義などについて述べた第一講の結びの部分です。まさかこのような意味不明な記述の類が大哲学者の主要著書の和訳本中のあちこちに含まれているなど信じられないと思う方も多いでしょう。しかしそれは紛れもない事実なのです。それなりの専門家と編集者が携わったはずなのに、何故このようなことになってしまったのか、正直なところ私にもその真相は分かりません。
ところで、この引用和訳文の原文が伝えようとしたのはどのようなことだったのでしょうか。甚だ押し付けがましいとは思うのですが、このままで済ませるのも無責任ではありますので、一応、私が試みた無粋な翻訳文を紹介させていただくことに致します。
「特定の事実のもつ様態だけに意識を集中してみても得られるところはなにもない。このような考察をその極みまで押し進めてみても、実世界から遊離したはかなく空しい展望に行きつくしかないのであって、そのような展望を通しては、個々の経験に強くはたらきかけ、宇宙の内奥を開示してくれるような諸事象の根元的連関性を浮き彫りにすることなど望むべくもないのである。」
この訳文は、「思考の諸様態」が刊行された翌年に、第一講だけを急遽私が自訳し、「表象の転移」(白馬書房)という共著の書籍中において「重要性の概念と現実様態」と題し公表したものの一部です。「勝利」と訳されていた原文中の「triumph」という言葉を「極み・極致」に、「修道院にたてこもる」と訳されていた「cloistered」を「実世界から遊離した」に、そして「逃亡者」と訳されていた「fugitive」を「はかなく空しい」と訳し直し、さらには「徳人」と訳されていた「virtue」を一旦「美徳・美点」と直訳したあと、全体の文脈を汲んだうえで「展望」と大胆に意訳することによって仕上げてみたのがこの一文なのでした。むろん、第一講の訳文全体も既存の文章とは大きく異なるものになったのです。そしてその後、ごく内輪でのことですが、同著作の全訳に取り組むことになったのでした。