時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――その概観考察(6)(2018,03,15)

(哲学という学問は何のために存在するのか)
 哲学というものが本来的には「智を愛し求めること」を含みとする学問であるとするならば、その道の専門家ではない私たち庶民がその世界にちょっとだけ足を踏み入れ、身の丈に適った方法で、本道からは些か外れた脇道や裏道の散策を続けるたにはどんな心構えが必要なのでしょうか。
既に述べてきましたように、哲学というと、庶民にはおよそ無縁な高度で難解な知識概念を教授したり、古来不変とされる絶対的真理を伝授したりする学問だと思われがちです。実際、若くて未熟な時代の私もまたそう信じていたものでした。しかしながら、その後次第に、哲学の世界に対する私の見解は若い頃のそれとは違うものへと変わっていきました。どうやら、哲学とは、一部の人々に向かって深遠かつ高邁な知見や永遠不変の絶対的な真理を説くための学問というよりは、生来無知で迷い多きわれわれ普通の人間の日々の生活にそっと寄り添い、素朴だが根元的な疑問に答えたり、疲れた心を癒したり、生きるための実践的な知恵を与えてくれたりする学問であるらしい――まあ、そんなふうに思いを新たにするようになったわけなのです。その見地からしてみますと、折々年配者が若輩者を諭す時などに用いる「お前には哲学がない」などという高飛車な言い回しの是非そのものからして、今一度考え直してみる必要があるのかもしれません。
一見もっともらしく思われるこの諌めの文句のなかの「哲学」という言葉は、実は「確固たる信念」という意味で用いられているのです。そうだとすると、深く迷い悩みながらも容易には答えの見つからない物事の根元的問題に真摯に迫っていこうとする思考過程を意味する本来の「哲学」とは、いささか異なるものだといえるでしょう。少々意地悪な見方をすれば、「お前には哲学がない」と説諭するその人自らが、あらためて哲学の本質について思索し省察してみることが不可欠だという話にもなるでしょう。
そんなわけですから、今の私は、真正面から哲学の研究に取り組み、その分野の専門家になるつもりでもないかぎり、肩の力を抜いて自然体でその世界に臨み、そこに蓄積された叡智を気の向くままに学び楽しめばよいのだというふうに、すっかり開き直ってしまっているのです。ましてや「哲学の脇道遊行」ともなりますと、今更何をか言わんやと些か横柄な態度で身構えるしかありません。そして、これまた何とも皮肉なことなのですが、私をそんな心境に導いてくれたのが、他ならぬアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドとバートランド・ラッセルという二人の著名な哲学者、より正確に言えばそれら二人による幾つかの著作だったというわけなのです。
 例えば、ホワイトヘッドは、その著作「思考の諸様態」のエピローグにおいて哲学の目的とは何であるかについての彼なりの見解を提示しています。少々話が堅苦しくなりますが、参考までにその一部を同著の私の翻訳文中から引用しておくことにしましょう。
彼は、まず、「哲学のもつ特別な役割とはどのようなものなのであろうか。この問題に答えるためには、われわれはまず特定の理論において哲学的特性を構成するものが何であるかを決定しなければならない。ある理論を哲学的なものとする要因とは何なのであろうか。如何なる真理であろうとも、それを支える無数の要素すべてが完全に理解されるような場合には、最早、その真理が他の真理のどれよりも哲学的であるとか、逆にどれよりも哲学的ではないとか見なされるようなことは起こらない。哲学の探究とは全知全能の世界とはまるで疎遠ないしは無縁な仕事にほかならないからである」と述べています。
そしてさらに、「哲学とは無知なるがゆえの賜物たる諸々の理論に傾注しようとする心的な態度なのである。『無知なるがゆえの賜物』という言葉によって、わたしは、理論というものが無数のそして複雑な環境に基づいているものであるかぎり、その理論の意味を完全に理解することなどできはしないと主張したいのである。哲学的考察とは、現代思想の中に入り込み、その全概念の応用領域についての理解を深め広げることをめざす一途な試みにほかならない。哲学的な試みには、あらゆる言葉、あらゆる成句をその思想の言語表現のために駆使することが求められる。そして、それらは何を意味しているのかと問いかける。哲学的思索は、思慮深い者なら誰でもその答を熟知しているというようなありきたりの前提に立つことを拒む。原初的な理念や原初的な前提に満足した途端に、その人は哲学者などではなくなってしまうのだ」と説いてもいます。
(哲学とは思考の旅路の案内役)
 甚だ僭越ではありますが、前述の引用文の要点だけをより易しく大まかな言い回しに述べ変えてみることにします。すると、それは、「この世にあって真理と呼ばれているものは皆、それが成立する礎(いしずえ)として無数の要素を抱え込んでいるものです。もしもそれらの要素がすべて理解されるようなことになったら、もうその真理は哲学的考察の対象などになることはありません。哲学の探究というものは、全知全能の世界などとはまったく無関係な、迷いのみが多くして明確な答えなど容易には見出すことのできない道程なのです。そもそも、わたしたちは無知だからこそ、そして、ある理論をその根底ごとには完全に理解することができないからこそ、哲学的な思考を重ね、言葉の限りを尽くして思想の世界の奥深くにまで分け入ろうとするわけなのです。哲学的な思索とは、それなりの知識人なら誰でもよく知っているような原理原則に則(のっと)って物事の本質を考えることではありません。そんな原理や原則を安易に受け入れ思考し始めた途端に、その人は哲学などとはおよそ無縁な存在になってしまうのです」というくらいのことになるのでしょうか。
 あえていま少し手短かに述べれば、「哲学の目的とは特別な真理や絶対的な知識概念、高度な理論などを教えることではなく、それらの背景を深く探る方法論を提示することである。その意味では、哲学とは一見したところでは明瞭かつ絶対的にも思われる真理、知識、概念、理論などの奥に潜む闇の世界を垣間見る行為なのだ」ということになるのかもしれません。
 そんなわけですから、ホワイトヘッドやラッセルの誘いに乗せられすっかりその気になった無知無能な私などは、「無知こそ命、正解など求めることができなくなくても当前」と大いに開き直り、嬉々として、勝手気ままに思索の世界を覗き見ながら、ふらふらと遊行に踏み出したような有り様です。ちょっと格好をつけるなら、無知なるがゆえにこそ許される「知的観念の冒険」を楽しんでいるというわけです。この「知的観念の冒険」という言葉もまたホワイトヘッドの著作からの受け売りではあるのですが……。無論、行き当たりばったりの探索ですから、体系的な思想や理論の構築などにはまるで関係ありません。

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