時流遡航

《時流遡航305》日々諸事遊考(65) ――しばし随想の赴くままに(2023,07,01)

(「真実」や「虚偽」の概念の本質を一考する)
 生成系AI技術や各種SNSシステムの発展と普及に伴い、フェイク音声、フェイク画像、フェイク文章、さらにはフェイクニュースの類が飛び交い、それら一連の情報が我が世の春を謳歌する時代となってきた。数々の真贋の交錯した情報が際限なく溢れ返り始めたこの時代を危惧する動きが生まれるのは当然だが、どうせなら、ここで、「真実」とか「虚偽」とか称されるものの実態が如何なるものなのかを真剣に考えてみるのも一興だろう。何時の時代にあっても、我々人間は「歴史的事実」や「社会的真理」というものは何物にも増して重要だと教えられ、実際またそうであるとも信じ込んできた。だが、その種の規範が真実そのものなのか否かが、ここにきて問い直されているように感じられてならない。
 個々の人間の知覚能力や認知能力というものには身体的限界、より厳密に言えば生物学的あるいは物理化学的制約が伴っている。特定の事象を複数の人間が同時に目撃した場合でも、それぞれの者が心中に描くその事象像は同じではない。各々の人物の五感の精度差や立ち位置の相違、さらには心的機能の差違などがあるから、完全な一致など有り得ない。また、たとえその事象に関する複数の実映像が残されていたとしても、それらの映像には微細な相対的相違が必ず存在している筈で、一つの映像のみに話を限ってみる場合でも、現場にいた別々の人間が受け止める事象像や、それに基づく個々の印象などが全く同じものになるわけがない。もし同一になったりしたら、逆に不自然でさえあるだろう。
 ましてや、当該事象を直接には目撃せず、諸々の伝聞や映像の類のみによって問題の出来事に接するほかない人々にとっては、個々の認知内容に大きな違いが生じることは避け難い。結局、個々の認知能力に限界の伴う人間は、自らの宿命として、相互妥協のもとに成る最大公約数的な事象像を受け入れていくしかないことになる。だが、その妥協像が実相とは大きく異なっているような事態も頻繁に起こるから、話は厄介なのである。現在世界各地で起こっている国際間の紛争や政治的対立、意図不明の凄惨な殺人事件などを見ても、誰しもが納得のいくようにその事象像を描くことは不可能に近い。また、時の権力者や専制者というものは、そんな人間の不完全性を、自らの権力拡大や、未来を睨んだ自賛の歴史文脈構成に巧みに利用しようとするのが常だから、手が悪いことこのうえない。
 そもそも、一生命体として先の知れない時空を生きる人間というものは、次々に行く手に立ちはだかる諸々の不安と対峙しながら、還りなき日々を歩むことを運命づけられている。自分という存在が何者なのかを考える暇さえもなく、無機質に近い単なる一個体として生涯を終えることに異存がなければそれでよいのだが、自己意識という厄介な生体機能がそんな流れを妨げる。その自己意識が宿命的とも言うべき自立の不安に晒されてしまう結果、ほとんどの人間は何かしらの外的な対象に依存の場を求め、そこに心の安らぎと自己存在の意義とを見出そうとする。その際に重要となるのは、心的依存の対象が現実なのか非現実なのかなどではなく、無窮の時空のなかを迷い漂う一個体として、それが自らを托し委ねるに値する存在なのか否かということなのである。
 そのような意味からすると、諸々の歴史というものはそれぞれの流れの中に所属する人々の心を支えてくれるし、各種の社会的倫理、伝統、制度、さらには諸宗教の類もまた、苦難に満ちた人生行路における折々の道標となったり、憩の場となったりしてくれる。それなりの長い時間と多大な人知人力を重ね連ねることによって形成されたそれら精神的支柱を人々が尊重するのは必然のことだから、今更その行為を否定するわけにもいかない。
 ただ、そんな歴史や倫理、伝統、制度、宗教などの成立や伝承の背景を冷静に見つめてみるならば、それらすべてのものが現実と虚構との絶妙な混交物であることに気づかされるに違いない。とくに歴史や宗教上の教えというものは、後々の時代の人々の心を強く捉え、その至上の支えとなるために、見事なまでの物語性と伝承性とを秘め持っている。些か皮肉な言い方をすれば、たとえそれが善意に基づくものであったとしても、それなりには催眠術的要素が含まれているということである。端的に言えば、絶対的真実でもないが、絶対的虚偽でもないわけで、それをどう受け止め、己の人生にどう活かしていくかはそれぞれの時代に生きる個々の人間に委ねられる。歴史的立場や宗教的立場の相違に起因する諸々の対立や紛争が尽きないのも、この世に絶対的真実など存在していなからだろう。事実重視の科学の世界であってさえ、永遠不変の原理原則など存在していないのだから……。
(生成系AIを恐れるなかれ!)
 歴史や宗教をはじめとする様々な教えの背景をそんなふうに考察してみると、我々人間は何時の時代も多分に虚偽と虚構に満ちみちた世界の中を、その実情を承知のうえで生き抜いてきたことになる。ノンフィクション性とフィクション性とが交錯し、あるときはその一方が極度に強く浮き出る世相さえをもしたたかに歩み通してきたのである。第2次世界大戦時下の日本や当今のロシアなどは、フィクション性依存社会の象徴だと言ってよい。
 そうだとすれば、昨今の生成系AIの台頭に関しても、必要以上に危惧感を抱くべきではないのかもしれない。AIの生み出すフェイク音声やフェイク画像、フェイク文、フェイクニュースの類に慎重を期す必要はあるけれども、過剰にそれらを恐れるべきではないだろう。すでに述べてきたように、我々人間の誰しもが、その善し悪しにかかわらず、従来の世界に在っても幾度となく騙され続けてきたからなのだ。騙されることによって直面する苦境を乗り切ることができた事例だって、その気になれば枚挙にいとまはないだろう。
 この際、チャットGPTなどの各種生成系AIは人間の認識能力や創造能力の拡張ツールや補助ツールとして有効活用する道を模索していくべきだ。一時的にはフェイク情報に悩まされたり、仕事を奪われたりする負の局面も生じようが、長期的かつ大局的な観点からの対応が望ましい。ともすると全体的な社会状況に流されてしまいがちな人間が、あらためて個人としての自らの存在意義やスタンスの取り方を問い直し、個的自立の重要性を再認識する契機にもなるかもしれない。たとえ生成系AIによって従来の仕事を奪われたとしても、そうなると誰もが真摯に新たな創造思考をめぐらすようになり、それまでまったく想像さえされていなかったような展開が生みもたらされていくだろう。希望を失い絶望感に覆われがちな人心や、旧来の社会的価値観が一掃されるというわけだ。AIを操作し、それが生み出す諸データの価値判断するのは飽く迄人間なのである。完全生命体として自らの意思と自己増殖・自己保全機能をもち自力で成長発展を遂げるAIの登場などなお夢のまた夢の話である。「人間よ、己の能力を信じよ」と、あらためてその存在を鼓舞してもみたい。

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