第二次世界大戦が始まってからの一年間、事実上、英国は日、独、伊の枢軸国に対抗する唯一の国といってもよい存在だった。そのため、枢軸国に侵略支配された国々にあってレジスタンス運動を繰り広げる人々にとっては、英国は対枢軸勢力のシンボル的存在となった。そしてその中核を成したのがほかならぬBBC放送であった。「戦時中BBCは我われの不屈の信念をより強固なものにするために貢献し、その勇気と希望をかぎりなく高めてくれた」といった類の言葉をのちのヨーロッパ各国の指導者らは口々に述べている。宣伝戦略の天才と謳われたナチスのゲッペルス宣伝相などでさえも、「BBCによる欧州本土への知的侵略は脅威であると言わざるをえない」と嘆き悔しがったほどであった。
(冷静に事実を伝えたBBC)
戦時中対独放送に従事し、のちにBBC会長になったヒュ―・カールトン・グリーンは、「常に真実を伝えることこそが正しい道だという信念は微動すらしておらず、自国の被害を過少に報道することだけは絶対に避けようと決意していました。我われが率直に敗北を認め、真実を語り伝えるのを聴いたドイツ人は、やがて我われが勝利する日が到来したとき、その事実を述べるBBC放送を必ずや信じてくれるだろうと考えていました。絶望の淵に追い込まれてもなお抵抗を試みる敵国の意志を挫くのにBBCが大きな力を発揮するときが必ず到来すると確信もしていたのです」と、当時のことを回想している。
戦時中「日の丸アワー」という対米宣伝放送を担当、言語による心理戦を展開した池田徳眞という人物がいた。戦後、彼は各国の宣伝放送を徹底的に比較分析し、「真に宣伝のなんたるかを心得ていたのは英国であった」として、国家宣伝意識の有無にかかわらず結果的にはその役割を演じ切ることになったBBCの特徴を的確かつ簡潔に纏めあげた。
一、ニュース放送の態度が冷静沈着そのものであった。
二、敵味方という感情を極力抑え、中立的な態度で報道を続けた。
三、ニュースとその解説がたいへんバライエティに富んでいた。
四、各種のニュースを合わせ組み立てた「ラジオ・ニューズリール」が面白かった。
五、常に敵味方の新聞の論調を取り上げ、解説し、反駁していた。
六、事件が生じるとすぐに関係地域の元大使などにインタビューを行い、その背景の解明に努めていた。
七、何事に関してもすぐに専門家を登場させ、内容のある報道になるように努めていた。
八、対外英語放送の場合、キングズ・イングリッシュ特有のアクセントは避け、誰にでもわかるような外国人向けの英語で話しかけるように配慮されていた。
九、英国式スタイルとでもいうべき、品位と風格のある客観的な放送を行っていた。
池田はBBC放送をそう評価しているのだが、実際、そのことを裏付けるような放送が第二次世界大戦開戦直後に行われた。空母から発進した日本海軍航空隊はマレー沖海戦で、当時不沈戦艦と謳われた英国海軍のプリンス・オブ・ウェールズと随行の戦艦レパルスの二隻を撃沈し、航空機による戦艦の撃沈は不可能であるというそれまでの常識を打ち破った。この時もBBCは、「本日午後行われたマレーシア半島沖の海戦において、日本海軍爆撃機編隊による空爆をうけ英国海軍のプリンス・オブ・ウェールズとレパルスはともに撃沈されました。英国海軍省はその事実をBBCが公表することに対し遺憾の意を表明しています」と、まるで中立国の報道でもあるかのように冷静沈着な放送を行ったのだった。
第二次世界大戦中にBBCが行った歴史的放送のひとつは、ド・ゴール将軍によるフランス国民への呼びかけであった。1940年にフランスがドイツに降伏したとき、ド・ゴール将軍はロンドンからフランスの軍人たちに地下に潜伏し戦闘を続けるようにと懸命な呼びかけを行った。さらに、それを支援するかたちでウインストン・チャーチルまでがフランス国民に向かってフランス語で激励のメッセージを放送した。ヨーロッパ本土の反ナチス勢力にとってはこの当時BBC放送だけが頼りであった。彼らは夜になると密かに受信機を持ち出し、頭から毛布をかぶってやっと聞こえるような小さな音で流れでるBBCのラジオニースに耳を傾けた。そして、ドイツやイタリアによって占領されていた各地が連合軍によって解放されたというニュースが飛び込んでくるごとに小躍りして喜んだ。
(戦後に放送理念を一層明確化)
戦時中にBBC海外放送の各国語部門はその数を増し、終戦時までには実に45ヶ国語にものぼる海外放送が行われるようになっていた。当初インド向けは英語放送だったが、インド軍やその家族向けにヒンドゥー語の放送も誕生した。インドやその周辺国向けの英語番組は本来一定レベルのインテリ層を対象としたものだった。聴衆に想定されていたそれらインテリ層は反ナチスではあったが、英植民地からの独立を主張しているという点では反英的な存在だった。そのため、BBCはその番組に当時のイギリス文化の中でも特に上質な内容のものをふんだんに盛り込んだ。T・S・エリオットやE・M・フォースターなどのようなその時代最高の文筆家が登場し講演することもしばしばだった。シューティング・エレファントやアニマルファームで知られる作家のジョージ・オーウェルなどは、しばらくのあいだエリック・ブレアという本名でBBCに職員として勤務もしていた。
戦時中に膨れあがったBBC海外放送の放送時間は戦争終了時に正規の時間数に戻された。そして、46年にBBCに交付された放送免許付帯規約には「BBC海外放送の言語の種類とその放送時間数は政府がこれを定める」という一文が盛り込まれた。そのかわり、「海外放送に必要な財源の確保は政府が責任を持つ」という確認条項も付加された。それを受けたBBC側は、「たとえ英国社会や英国の国益にとって不都合なニュースであっても、それを抑制してはならない。また、ニュース放送はそれを聴く人々の説得を意図したものであってはならない。如何なる国であっても、その国の内政に干渉するようなことはBBCの本意とするところではない。国際的に論争となっている問題については、公式のBBCの態度とそれに反対する諸外国の意見とを合わせて報道し、また、英国内に強い支持のある対立意見にはその支持の強さに応じた正当なウエイトをおいて放送を行わなければならない」という海外放送の原則をあらためて経営委員会や議会筋に提示した。そして、過去の実績を基にして有無を言わさずそれらを承認させたのだった。こうして、BBCは国際的にもその権威を高めていくことになったのだが、むろん、それは初代会長リース以来の高邁な理念を死守しようとする職員たちの毅然とした態度の賜物だった。