(「エビデンス」という片仮名言葉を手始めに)
今世間では様々な分野で「エビデンス」という言葉が広く用いられるようになってきているようです。諸々の科学研究の世界ばかりでなく、政財界や各種報道関係の世界などの社会学系分野においてもその外来語は幅を利かせるようになっています。もちろん、それは「evidence」という英語が片仮名表記されたものなのですが、その英語に対応する「証拠」や「根拠」あるいは「明証性」といったごく普通の日本語があるにも拘らず、なぜ敢えて「エビデンス」という言葉を用いなければならないのでしょうか。医学や薬学の分野などでは近年とくにその傾向が強いようなのですが、かねてから不必要な片仮名表記の外来語はなるべく避けるように心がけている身としては、そんな状況が些か不自然に思われてなりません。法令や規則の遵守を意味する「コンプライアンス」などという片仮名用語の氾濫も、「エビデンス」のそれと同じ流れに乗るかたちで生じたものなのでしょう。
国際的な学術研究発表の場や海外に跨るその道の専門家同士の仕事上のやりとりにおいてなら理解できるのですが、国内の一般人向けにもこの種の言葉が乱用されるとなると、それはそれで考えものだと言わざるを得ません。歴史ある日本文化を根底で支えるはずの日本語の表現自体が日増しに疎かになっていきつつある昨今、この種の問題の背景を一歩踏み込んで考えてみることは重要かもしれません。ささやかなこの手稿の本題とその問題とは直接関係ないように見えるかもしれませんが、一見する限りでは何の意味も無さそうな事柄の奥にあるものへと注意深い視線を向けてみることも、哲学の脇道遊行の旅の第一歩であるとは思うのです。そもそも、哲学とは、表面的にはもっともらしく思われる個々の言葉の背後に隠れた事象を探ったり、その言葉が伝えようとする概念の適否を熟考したりすることでもあるはずなのです。今更述べるまでもないことなのですが、言葉とは人間社会成立と発展の原点にほかならなかったはずなのですから……。
言葉というものは時流とともに推移していくものですから、「エビデンス」とか「コンプライアンス」とかいうような外来語が国内に流入し、日本語と合体し定着していくこと自体はやむを得ないことでしょう。国際交流や日本人の意識と生活様式の国際化が重要視される昨今にあって、初等期からの英語教育などの必要性が声高に叫ばれるなか、各種の外来語がもてはやされるのは必然の成り行きなのかもしれません。
しかしながら、「エビデンス」や「コンプライアンス」といったような国民生活の核心と深く関わる概念を表す外来語については、慎重な検討とそれに伴う適切な対応がなされるべきでしょう。それらの言葉をもっともらしく多用する人々のほとんどが、その本質的な意味や重要性、さらにはそれらの言葉が含みとする概念の成立要件などを十分理解しているとは思われないからなのです。ましてや、その種の言葉に馴染みのない一般の人々に至っては、「何だかよくわからないけど、まあ、そう悪い言い方じゃなさそうだし、それに格好良さそうだから」と感じるくらいが関の山かもしれません。そして、よく理解できないまま、何となくわかった気分にさせられてしまうことこそが実は問題だと言えるでしょう。
もちろん、将来的に日本が現在の母国語を廃絶し、英語国へと一大転換を図るというのであれば、日本語のなかにどんどん英語を流入させ、最終的に英語を日常用語にしてしまうという政策なども必要になるでしょう。その場合、最終的には、幼稚園や小中学校などの段階から全教科で英語表記された教科書を用い、全部の授業を英語でおこなうことにもならざるを得ません。そうでなければ英語による深くて自然な思考の展開などできるはずなどないからです。ただ、そのためには一定の強制力が不可欠となりますから、かつての日本軍国主義時代の朝鮮半島や台湾、東南アジアなどでなされた日本語強要政策同様の手法が必然となってきます。さらにまた、現在盛んにおこなわれているような、高度なIT技術を駆使した日英相互翻訳機器の開発などはまるで無意味になってしまいます。
ただ、さすがに、そのような状況の到来が好ましいと思っている日本人はほとんどいないことでしょう。もしそうだとすれば、われわれ日本人はこれからも日本語を大切にし、それに支えられた文化をしっかり守っていくしかありません。この国際化の時代にあって一定水準の外国語の素養が必要なことは当然なのですが、過熱する英語教育ブームに煽られて、幼児期や初等中等教育期の母国語修得や母国語による深い言語思考力の育成が阻害されるとなると、事は重大だと言わざるを得ません。バイリンガルの能力をもつ人々は称賛されがちですが、彼らの場合も真に高い言語思考の実践はどちらかの言語でおこなうものだと言われています。基本とする何れかの言語思考能力の形成あってのうえでのバイリンガルなのです。そうではないごく上辺だけのバイリンガルの場合には、日常生活面ではともかく、より深い学術的思考や哲学的思索に専念するのは困難だとも言われています。
(英語の劣等生だった高校時代)
昔話になって恐縮なのですが、私は高校学校の二年生くらいまでは文字通りに英語の劣等生だったのです。私が学んだ中学校は鹿児島県の離島にありました。今とは異なる時代なりの事情もあって、英語の先生は正規の英語教諭の資格をもたない人物だったうえに、中学3年間を通じて2年生レベルの英語の内容くらいまでしかその授業は進みませんでした。半農半漁の貧しい自給自足集落のことですから、学習塾の類はむろん、学習参考書を売っているような本屋もまったくありませんでした。その中学での成績そのものは良かったのですが、本土各地の中学生の状況と比べれば全体的な学力差は歴然たるもので、なかでも英語の能力の違いときたらただもう目を覆いたくなるばかりの有り様でした。
島には高校がなかったこともあり、90名ほどの同期卒業生中で本土の高校に進学できたのは私を含めて7人ほどに過ぎませんでした。すでに両親を亡くし、極貧の状況下にあった私は、一時は進学を断念し中卒のまま関西方面への集団就職を考えていましたが、周辺の方々による諸々の配慮もあって、幸いにも鹿児島市の高校に進学することができました。だが、高校での英語の成績は悲惨なもので赤点付近をうろつく日々の連続だったのです。
そんな私が、様々な紆余曲折を経た末に、何冊もの英文書籍を翻訳出版したり、英語で論文を書いたり、外国人相手に英語で無理なく意思の疎通を図ったりできるようになったのは、教育の初等期において日本語による言語思考力をしっかりと身につけておいたお蔭だと思っています。読書だけは大好きだったものですから……。随分と話が遠回りになってしまいましたが、まずはここで「エビデンス」なる言葉の語義とその背景に注目し、それを足掛かりにして哲学の脇道にもう一歩踏み込んでいくことにしてみましょう。