時流遡航

《時流遡航240》哲学の脇道遊行紀――実践的思考法の裏を眺め楽しむ (26)(2020,10,15)

(主観と客観という対照的概念の背景を考える(続))
 人間をはじめとする個々の生命体の本質や、それに付随する認識様態などにまったく左右されることのない「絶対的な事象像」、すなわち純然たる「客観」なるものが存在するとすれば、それを求め、それがもたらす知見に依存したくなるのは当然のことでしょう。極めて客観的だと評されたりする何らかの主張や見解を前にすると、ついついそれらを無条件で信じたくなるものですし、周囲から、あなたの思考は客観的だとか、あなたの態度は客観的だとか告げられたりすると、なんとなく良い気分になったりしてしまいがちです。しかしながら、一歩引いて冷静に考えてみると、たとえそれがどんなに望ましいものであり、我々にとって如何に不可欠に思われる存在であったとしても、「客観」という概念はそれほど安易に得られるものではないことが明らかになってくるのです。折角ですから、この際、その問題にもう一歩踏み込んでみることに致しましょう。
「主観」のもたらす認識像が個々の生命体によって異なるものであることは既に述べてきた通りですが(前回参照)、ではそれらの間をどのように調整すれば、「客観像」、すなわち、より普遍的で信頼度の高い認識像を構築することができるのでしょうか。何でもないことのように思われますが、いざその対応に臨もうとすると一筋縄ではいかない複雑な状況が浮かび上がってきてしまいます。実際問題として、ある特定の事象像について考えてみるだけでもその認識様態や認識内容は多種多様そのものです。例えば一本の樹木を観察する試みであっても、その木を取り巻く様々な方位から眺めてみた場合、根本に寄り添い身を屈めながら見上げた場合、鳥たちのように上空から見下ろした場合、枝葉を這う虫たちや土中で分岐する細かな根に生息するバクテリアなどの視点に立って見た場合、さらには天候の変化や季節の推移を考慮に入れて臨んだ場合などによって、その認識像はまるで異なるものになってきてしまいます。話を我われ人間の認識様態のみに限ってみるとしても、人それぞれの認識像に大小の差違が生じるのは必然のことであり、唯一無二の絶対像なるものが存在するはずなどありません。
 そしてそれが現実であるとするならば、敢えて「客観」なる認識像を構成したり求めたりする場合には、様々な認識像を平均化したものを客観像とするか、それとは逆に可能なかぎり多面かつ多様な認識像を提示したうえで、それらを通して個々の生命主体(人間はその代表)が独自に感知する像を客観像とするしかありません。ところが、前者の場合には平均することによって失われる要素が多分に生じてきますし、後者の場合にはその過程で把握される客観像は相異なるものが多々存在することになってしまいます。一般に科学的知見というものは極力主観的要素を排除し、客観的見地のみに立脚することによって導出獲得されるものだと考えられており、そのためには事象の多面的な把握と分析が不可欠だとされています。しかしながら、実態はそれほど単純かつ容易なものではありません。
 なぜなら、いくら多面的・多角的に事象を把握してみようとしてみても、それぞれの知見には必ずや認識する主体の主観が含まれているからです。そもそも、事象を把握認識することによって得られる客観的知見とは、多種多様な主観という素材から構成される一種の寄木細工みたいなものであり、「客観」という名のレッテルを貼った「主観」の集合体に過ぎなくなってしまうのです。詰まるところ、「絶対的客観」なるものは、どう足掻いても「主観」から逃れることのできない生命体の抱く幻想だと述べても過言ではないでしょう。
(「客観」という概念の落着点)
 それにも拘らず、我われは何故に「客観」という概念にこだわり続けるのでしょうか。むろん、それは主観に基づく自らの判断には限界があることを自覚しているからにほかなりません。そのため、一方では絶対的な客観性など存在し得ないと認識しながらも、他方では幻想とも言うべき「真の客観像」なるものをなお追い求めようとすることになります。そんな矛盾した行為をするのは、激しく果てしない変移変遷を繰り返すこの大自然の中にあって、臨機応変の対応をとりながら生命体として存在し続けるために、それが必要不可欠だからなのかもしれません。あらゆる認識のプロセスにおいて、もしもある生命体の具えもつ主観が完全に排除されてしまったとするならば、もはやそれは生命体などではなくなり、自らは外界をまったく認識できない単なる物質と化してしまいます。
ただ、それが生命体であるために必須のものであると言ってみても、自らの主観のみに完全依存してしまうと、もともと全知全能の存在などではないその判断には致命的な欠陥が生じてしまい、生命体自身の存続そのものが危機にさらされることになってしまいます。それゆえ、純粋客観なるものの存在を心底信じてなどいないとしても、他の生命体や自らを取り巻く自然環境と適宜調和をとりつつ、仮想的な「客観」概念を構築し必要に応じて折々それに依存する知恵を身に付けるようにもなったのです。この種の矛盾した概念を宿命的に背負う人間のような知的生命体が、絶対紳の類を崇め奉る宗教などに帰依し、窮極の判断の拠り所をそこに仰ぎ求めたくたくなるのも、多分そんな背景があってのことなのでしょう。カリスマ的な諸々の宗教の教祖らが、迷える一般大衆に向かって説く深遠な教義や思想なるものも、詰まるところは「超越性」という仮想客観の仮面を被った主観の結晶体にほかならないのでしょうけれども……。
 そんなわけですから、最も客観性が必要だとされる科学研究の世界であっても、それに携わるのが生命体としての人間であるかぎり、未来永劫「絶対不変の客観性」に辿り着くことはあり得ません。たとえ主観とは無縁な絶対的客観性なるものが何処かに存在すると仮定しても、それは我われには到底理解不可能な異次元の世界の話になってしまいます。しかし、我われの世界に主観の対照概念として客観の概念が存在するかぎり、それを中途半端で漠然とした状況のままで放置しておくよりは、喩え不完全なものであっても何かしらの定義くらいはしておいたほうがよいでしょう。少なくとも、客観性なんて所詮無意味だから、自己の主観にとことん固執し、それをひたすら絶対視して他者の知見などには一切関心を示さなくなってしまうよりはずっとましかもしれません。
 そうだとした場合、「客観」というものを我われはどのように考えたらよいのでしょうか。無能な私に今言えるのは、「ある事象について、可能なかぎり多面的・多角的な視点から、さらには微視的あるいは巨視な観点から極力多様な認識像を求め、それらをもとに折々の必要に応じ、なるべく多くの者が納得するように構成された事象像を意味する。ただし絶対不変の客観的事象像を追求するのは無意味である」というくらいのことにならざるを得ないでしょう。

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