時流遡航

《時流遡航》哲学の脇道遊行紀――脇道探索開始(10)(2018,05,15)

(哲学の本質は己の無知を自覚すること)
 古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、当初、「雄弁術」、すなわち、他人を巧みに説得するための弁舌や対話の技巧を教えることを仕事とする職業人、いわゆる「ソフィスト」だったのです。しかし、やがて、彼は「無知の知」、すなわち、自らが無知の極みにあることを痛感する境地に至り、少なからず思い上がったところのあったそれまでの自身の姿を深く反省するようになっていきました。そして、己の無知を知るがゆえにこそ、どこまでも知を愛し求め続ける生き方「フィロソフィア」こそが人間存在にとって真に不可欠な要諦(ようてい)なのだと確信するようになりました。また、それゆえに、若者たちに対話を通じて世間で知識と称されているものの適否や真偽を深く吟味させ、その過程を経ることによって彼ら自身に各々の無知を自覚させることこそが自分の天職だと考えるようになったと伝えられています。そんなソクラテスの弟子の一人が、のちにアカデメイア(知の学園)を創立し、イデア論を説いたプラトンだったわけなのですが……。
 生まれてこのかた無知の塊みたいな存在だった私などは、ソクラテスの教えに倣(なら)うまでもなく、遠の昔に自らの愚かさや無能さを悟りきっていました。そんなわけですから、今ではすっかり開き直ってしまい、近寄りがたい高度な知識とか、逆に明々白々の事実とされているものの裏側などを、恥も外聞もなく勝手気ままに覗き見して回っているという次第なのです。そんなこの身に偉そうなことなど言える筋合いはないのですが、それでもなお、思考の世界の脇道や裏道散策を通して気づかされることはけっして少なくありません。高度な抽象性をもつ数学の世界の概念やそれらに纏わる諸問題に踏み込む前に、まずはなるべく身近で具体的な事例をもとにしながら、諸々の知識や常識の背後に潜む思考の闇を幾らかでも垣間見るためのトレーニングを積んでみることにしましょう。まだまだ先の話になりますが、具象と抽象という言葉のもつ意味などを深く考察してみることなどもその思考トレーニングの一環になってくるはずなのです。
(北朝鮮が米国を狙うとすれば)
 まず手始めに、我われ人間の思考判断というものがどんなに錯誤に陥りやすいものなのか、そしてまたそれは世間の常識というものによってどんなにコントロールされやすいものなのかという事例をひとつ紹介することにしましょう。折しも、北朝鮮は大陸間弾道弾実験中止の意思表明をしたところで、目下大きな話題になっています。その一件に関して、多くの日本人は、北朝鮮が米国本土を狙う場合、その弾道弾は必ず日本の領土の上空を通過するものだと考えているようです。トランプ大統領が、「日本の上空を通過する北朝鮮のICBMを自衛隊が撃ち落としてくれるなら米国の防衛にも繋がる」といった趣旨の発言をしたことがありますが、その主張なども同じ前提の上に立ったものだと言えるでしょう。
 ところで、この話、本当に事実なのでしょうか。そう訊ねられて、確認のために改めて世界地図を眺めてみたとしても、ほとんどの人が、米国を標的にしたICBMは間違いなく日本の上空を通るはずだと考えることでしょう。しかし、実際にはそれは事実ではありません。普段から正距方位図法に接している航空関係者などならすぐにそのことが間違いだと分かるのでしょうが、多くの一般人の場合にはなかなかそうはいきません。それゆえにこそ、イージス・アショアのようなミサイル迎撃システムの配置は、日本の防衛のためばかりでなく、同盟国アメリカ防衛のためにも役に立つといった話がまことしやかに流れ広がっていきもするのです。イージス・アショアの購入費は1基で1千億円にものぼるので米国の軍需産業の利益は大きく、間接的になら確かに同国の国防にも役立つわけですが、直接的な意味では必ずしもそうではありません。敢えて「必ずしも」と記したのは、米国本土を除くハワイ諸島やグアム島などの防衛に関しては直接的に役立つはずだからです。
 では、いったいそれは何故なのでしょうか。また、どうすればその事実を確かめることができるのでしょうか。ここで必要なのは発想の転換です。メルカトール図法で描かれた平面的な世界地図を眺めているだけでは事実のほどは一向に解明されません。そうなんです、地球は丸いわけなのです。そうだとすれば、どこかで地球儀を探し出し、それをちょっと眺めてみさえするならば、その理由は一目瞭然となることでしょう。
 地球儀の球面上でまず北朝鮮の位置を確かめ、続いてニューヨークやワシントンのある米国本土の東海岸に至る最短コースを確かめてみてください。それは中国北東部域の端からロシア東部、そして北極海、カナダ中央部を経て米国東岸に至るコースになります。いぽう、北朝鮮からサンフランシスコやロサンゼルスのあるアメリカ本土西海岸に達する最短ルートを調べてみると、それは、ロシアのハバロフスク周辺、サハリン中部、さらにはカムチャッカ半島付根付近、アラスカ南岸部を経て米国西岸に至るコースになります。意外に思われるかもしれませんが、どちらの場合も日本の領土上空を通過することはありません。いずれも球面上の2点と球の中心を通る大円上の弧の一部(球面幾何学上の直線)に相当するコースになります。メルカトール図法による通常の平面的な世界地図を眺めるかぎりでは、北朝鮮から米国の西岸や東岸に向かうには、日本の領土を通過する北緯40度前後の緯度線沿いに進むのが最短ルートに見えますが、これは大円コースではないので最短距離にはなりません。
米朝間で平和ムードが漂い始めてもいる昨今のことゆえ、いささか場違いな話になるのかもしれませんが、もし、北朝鮮がICBMで米国本土を狙うとすれば、到達時間も最短で燃料も最少で済み、重力に応じた制御も容易な大円(大圏ともいう)ルートが当然選ばれるはずなのです。日本上空を通過する北緯40度線沿いのコースを採る場合などは、物理学的に考えると姿勢制御に余分な燃料やより高度な技術が必要となるうえに、到達時間も長くなってしまうのです。したがって、一見したかぎりでは必然的にも想われるそんなコースが選ばれることは実際にはないでしょう。もちろん、ハワイ諸島やグアム島などを標的にする場合には日本上空を通過することになりますが……。
 我われ人間の思い込みというものはなかなか厄介なもので、いったんある概念が正しいものだと刷り込まれてしまうと、それが誤ったものである場合であっても自らの力でそれを修正することは容易ではありません。また理論的にその概念が誤っていることを指摘されたうえで、新たに正しい概念を提示されたとしても、それを即座に受け入れることは困難なものなのです。米国の一部の州などにはいまだに進化論を否定したり、地球が平らであると信じてやまなかったりする人々が、老若男女を問わずなお多数いるのだそうです。でも我われは一概にそんな人々を一笑に付すことはできません。己もまた無知だからです。

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